岡豊のことを書いておこう

 バスで着きましたるは、岡豊城。さあ本日のメインイベント、岡豊城です。1日で高知城と岡豊城をまわる、というのは、一般的にはあり得るルート設定なんでしょうが、わりとのんびり城を見る自分にしてはかなり無理をしたスケジュールだと思います。まあ、この時点で、このあと高知に何回も入り浸るなんて予想できてなかったから仕方がない。また、この時点で、岡豊城が続100名城に入るなんて当然予想できないしね。これを書いている2021年8月時点の自分の気持ちとしては、「岡豊城が続100名城に入ったことでなにか整備されてるかもしれないから、また行きたい」という具合でして、現時点での「行きたい城ランキング」の中では結構上位に位置します。もちろん厳密なランク付けなんてしてないけど。

バス停からの眺め 登っていきます 地図 上を見上げる ここを進む


 で。到着すると、一目散に岡豊城に向かうのではなく、まずは寄り道。道中、「民家展示」なるものがあります。土佐の山村民家の展示であります。案内板の左下に思いついたように「味元三猪家旧住宅」とありますが、ホームページ上では「旧味元家住宅母屋」となっています。なお、URLによると、「味元」と書いて「みもと」と読むようです。
 かまどと蒸桶が土間に設置されているのが特徴、とのことであります。高知と愛媛の県境で雪が降ることは自分も実際に経験しました。あのあたりはなめたらあきまへん。

 そして、博物館前にはであい博のシンボルモニュメント。これをつくることの意味は正直分からないんですが、おそらくは地域の林業振興に繋がっているのではないでしょうか。


 そして、我ながら困るのが、博物館内の記憶が全くないこと。普通に考えて、日曜日に博物館が閉鎖されていたとは考えがたく、また、自分の性格的にこんな場所にある博物館に入らなかったとは思えない。なのですが、ここで長宗我部の何かを見たとか、岡豊城の何かを見たとか、そういう記憶がまったくありません。なにをどうやったらここまで記憶を吹っ飛ばせるのか、本当に不思議です。

 気を取り直して、岡豊城。案内図が出ているんですが、これも自分が何を考えていたのかさっぱり分からないレベルで写真が下手くそです。当時のカメラ的に丸みを帯びた写真が出てくるのは仕方ないとしても、ちょっと酷すぎじゃないでしょうか。


 まずは二ノ段。ここ岡豊城は、二ノ丸という表現ではなく、二ノ段という表現になります。そういえば、「なんで岡豊城は『段』という表現なんだろう」と思った記憶がよみがえりました。
 二ノ段には建物遺構は発見できなかったとのことですが、単なる荷物置き場だったのでしょうか。

二ノ段。解説板がなぜこんなに斜めなのかは本気で分からない 東方の眺め。土佐のまほろば

 二ノ段から詰下段に向かう途中には、しっかりとした堀切があります。
 しっかりとしているため、フェンスがあるのが難点……。まあ、かなり深そうな堀切なので仕方がないのでしょうね。


 詰下段。詰というのが本丸にあたる曲輪なので、本丸下段、あるいは本丸帯曲輪、という位置づけ。建物があったようで、詰を守る役割だったようです。

詰下段 二ノ段への道から詰下段

 そして、詰へ。いわゆる本丸ですね。
 詰の建物は2階建て以上の、いわゆる天守の前身的なものだったようなのですが……それにしても、岡豊城、全体的に平地部分が小さいような気がします。これは当時から思っていたことです。このあと、様々な山城に行きましたが、それらと比較してもちょっと小さすぎないですかね?一領具足が軍の主力で、常駐兵が少なかった、という面はあるのかもしれませんが、それにしたって狭すぎじゃなかろうか。いわゆる支配者層、長宗我部元親や家老衆の屋敷ってここじゃなかったのかな??


ふと見たら
トカゲ?がいました

 続いて、三ノ段。こちらも詰の帯曲輪的な感じのある段で、詰下段と似た構造です。
 こちらの特徴は、なんといっても土塁がしっかりと残されていること。それだけでなく、従来は岡豊城には存在しないと考えられていた石垣までもが発見されたとのことです。
 ここにも建物遺構があるわけですが、それにしてもやっぱり曲輪としてはあまり広くない印象。実際にはどんな感じの建物がどんな感じに建っていたんでしょうかね。これまでにあまりジオラマや復元想定図なども見たことが無いように思うので、何も分かってないのでしょうかね?

三の段に向かう 階段を見上げる 詰下段方向 三ノ段 この杭はいつ
打ち込まれたのだろう
土塁・石垣
(毎度毎度案内板の
撮り方が下手すぎる)
三ノ段の奥へ 三ノ段礎石建物跡 詰への階段
三ノ段を振り返る 石垣をアップで 土塁 四ノ段へ

 続いて、四ノ段。ここまでくると写真もさらに酷くなり、いったい私はどこを撮っていたのかもはや分からなくなります。自分の写真を見れば見るほど現地を再訪したくなるという仕掛けであります。
 場所的には、空港に帰る途中に立ち寄るのがベストなのかな。

四ノ段 城趾碑
展望広場 展望広場からの眺め
四ノ段 伝厩跡曲輪方面案内図 このあたりになると
山城っぽい構造が分かる
右手方向 ここにも石垣が残ります 進みます
全体図だと、この広場(曲輪)の名前は載ってない
三ノ段・詰方向への道 名無し曲輪に戻ります 四ノ段虎口 改めて四ノ段 伝厩跡曲輪方面へ

 伝厩跡曲輪へと向かいます。このあたりは虎口もあり、山城らしいギミックがあって楽しいですね。ただ、岡豊城がどこからどのように外敵がやってくることを想定して縄張りをつくっていたのか、いまいちイメージがわかないのが辛いところです。そもそも、城下町的な商業地はいったいどこにあったんでしょうか。

進みます 空堀 かなり浅くなってしまっていますが、ちょっとくぼんでいるのが分かります
元々は幅2.5mというのだから、そこそこの規模のものだったのでしょう
先ほどの名無し曲輪を囲んでいたのかな?
こちらも浅くなっていますが、竪堀です
この看板は誰がつくったのでしょうか……
さらに進みます 竪堀の解説 ここも浅くなっていますが、竪堀の存在は分かります
案内板 ゴールが見えてきました 振り返ります

 そして、やってきました、伝厩跡曲輪。もうちょっと名前の付け方はなかったんでしょうか。あと、厩跡がここにあったということは、さっき歩いてきた歩きやすい道が馬場だったのでしょうかね?
 まあ、物見のための出城としては、先ほどの竪堀や堀切で岡豊城本体と区切られており、南側からの敵の侵入に備える意図は分かります。ただ、それにしてはつくりが簡素な感もありますね。
 つまるところ、私が元親と岡豊城についてよく知らないので、この城の意味合いなんかを理解できていないのがいけないのかもしれない。うん、多分そうだ。

伝厩跡曲輪 厩床曲輪という名称も 坂崎紫瀾の岡豊公園征清凱旋碑
物見櫓 物見櫓からの眺め 曲輪を見下ろす
曲輪からの眺め

 そんなわけでして、あらためて岡豊城を再訪したいと思ったのでした。そして、あらためて博物館で知識を仕入れないといかんな、と思ったのでありました。
 丁度13年前、世の中が北京五輪直前だった時期のことであります。いまこれを書いているのが2021年東京五輪の閉会式当日(8月8日)でして、時の流れを感じますね。

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