ひとりで龍ケ崎

 知り合いが龍ケ崎で働いており,この日たまたま水戸で飲み会があったので,取手〜龍ケ崎に遠征。なぜ取手経由になったかというと,おそらくこのあたりでなにか仕事があったはず。取手→龍ケ崎にバスが出てることはその流れで調べたんだったか。ちょっと記憶が曖昧です。とにもかくにも,取手に行くのは競輪以外では初めて。

 で,取手の駅回りでなにか(競輪以外で)みるものは……と探したところ,駅の近くに長禅寺というお寺を発見。(内部公開はしてないようですが)こんなところにさざえ堂があるんですな。
 それにしても,なぜか本堂の写真がないことにびっくりです。普通こういうところに行ったら本堂に直行するはずなので,それでお参りして満足したのだろうか。ちょっと状況を思い出せない。

取手ゆかりの人々
若干強引に入れられた
人もおりますね
平将門創建!! 山門 三世堂。本尊十一面観音像は将門由来
霊山堂。大黒天をおまつりしているようです。小さな大黒様やら七福神の船やらがたくさん 庭池 びんずる様 光音堂 大師堂

 で,昼を食べてバスで竜ヶ崎駅に到着です。知り合いがいなかったら人生で知ることのなかった市であります。持つべきものは友人です。
 駅は,ザ・地方の駅ではありますが,駅舎はしっかりしていて,市の中心駅であることがよく分かります。まあ,寂れてますけど。
 今回,関東鉄道という電車についても初めて知りました。確かに,かつてどこかで「関東鉄道常総線」という響きは耳にしたような記憶がある。でも,取手に行ってもそんな路線目に入ってこなかったな。

竜ヶ崎駅

 で,龍ケ崎といえば龍ケ崎城,というわけで駅からえっちらおっちら龍ケ崎城に向かって歩いていきます。かつては城下町として栄えたけれども,常磐線から外れたために駅自体は寂れた,という感じですかね?
 龍ケ崎市のWikipedia竜ケ崎ニュータウンのWikipediaを見る限り,龍ケ崎市自体は人口が増えていったようで,市全体の開発はうまくいってるのではなかろうかと。佐貫という駅も今回初めて知りましたが(常磐線には何回か乗ってるはずなんだが),このまわりは栄えてそうな空気感です。

 んで,まずは大統寺というお寺にお参り。なんとなく歩いてたらなんとなく大きなお寺が出てきたのでなんとなく入ってみるのであります。仕事の荷物が重いので,ルートを大きくいじることはできんのですが。
 非常に大きなお寺でありまして,さすがは城下町のお寺だな,という感じです。このあたりはあまり寺町っぽい雰囲気はなかったので,このお寺が非常に強かった可能性もありますな。

大統寺 六地蔵 山門 本堂 道元禅師塔 竹柏 延命地蔵

 で,歩きながら今度は神社。楠森稲荷です。解説に出てくる八坂神社というのは,龍ケ崎鎮守の八坂神社のことなのでしょうね。今回は八坂神社には行っておりません。荷物が多くて歩くのに疲れていたのでありますよ。

楠森稲荷 見覚えのあるものが
捨てられておりました
役に立ったのかな?

 で,いよいよです。まずは龍ケ崎陣屋。
 解説を見てびっくり。仙台藩だったんですね!こんなところに領地を持っていたとは。これは全く知らなかった。龍ケ崎市も,「龍ケ崎は、伊達藩だった」という案内ページをつくっております。伊達政宗好きな人間としては,ちょっとテンション上がります。
 まあ,だからといってなにか遺構があるわけではなく,あるのは解説だけです。


陣屋方向
裏は龍ケ崎城

読めません

 そして,龍ケ崎城に向かって坂を登っていきます。人通りもそこそこあるので,さすがに鞄をどこかに置いていくわけにはいかないのが辛い・・・。
 んで,まあ特になにが残っているわけでもないことは事前のネット情報からも分かっておりまして,とりあえずここに来た,という足跡を残しておくのでありました。

龍ケ崎城への坂道 龍が峯の歩み 最後の坂道 龍ケ崎城跡地

 ちなみに。龍ケ崎市というと,一般には龍ケ崎城ではなく馴馬城が有名なようです。こっちは県指定史跡。南北朝期に南朝方についたお城のようでありますが,詳細は不明みたいであります。
 あと,龍ケ崎市にある城としては,登城山城が比較的面白そうですね。まあ,このあたりを訪れる機会があるかというと,その前に行きたい茨城県内の城はたくさんあるのよねん……。

 そして,最後は龍泉寺。観音様で有名なお寺のようです。

山門 境内 本堂 お地蔵様 六地蔵
このスタイルは珍しい
びんずる様 水子供養 ほおずき市について

 このあとは,知り合いに挨拶をして,バスで戻りました。バスで戻ったので,道中の八坂神社などはスルーです。バスを使わないと肝心の飲み会に間に合わなかったのであります。鞄が重くて疲れてたという側面も大いにあります。

関東鉄道

 それにしても,こんなところに伊達藩がいたとはねぇ。関ヶ原からそれなりに時間が経ってからゲットした領地のようですが,奥州の一揆の処理とかが終わったあとの伊達氏の懐柔策だったのだろうか。あらためて伊達政宗の歴史小説を読んだら,このあたりも出てきてるのかもしれんな。いかんせん土地勘が無いと本を読んでても地名はスルーしがちなのです。



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