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世界の競馬史に名を残す名牝キンチェム。1874年にハンガリーに生まれた栗毛のこの牝馬は、故国の1000ギニー、2000ギニー、セントレジャーとオーストリア・ダービーなど東欧のクラシック・レースを4勝、4歳から6歳までドイツのバーデン大賞典を3連覇、さらに英国のグッドウッド・カップ、フランスのドーヴィル大賞典を制するなど、6カ国で4シーズン走り、54戦54勝の成績を残しました。 名牝キンチェムは今でもハンガリーの競馬に携わる人々の大きな誇りとなっています。その偉業を称え、没後100年を記念する意味合いで、このほど『ハンガリー奇跡:キンチェム』という本が刊行されました。 男まさりの実力を持ったキンチェムのような馬は、日本の言葉では「女傑」というのでしょうか。しかし彼女は、担当厩務員のフランキーや厩舎のペットの猫と大の仲良しで、遠征のときには汽車に乗ることをとても好んだといわれるように、愛すべき競走馬として語り継がれています。 日本では「キンツェム」と表記・紹介されていますが、私たちの発音ではは「キンチェム」となります。 ハンガリーの競走馬といえば、キンチェムだけがよく知られていますが、歴史に残る名馬としてもう1頭、キシュベールが挙げられます。この馬はキンチェムが2歳の1876年に英国ダービーに優勝していますが、これもハンガリーで生産、育成された馬です。 ハンガリー競馬の歴史はおよそ170年。セーチェニ・イシュトヴァーン伯爵の呼び掛けにより、ハンガリーの競馬はスタートしました。同伯爵はまた1879年に完成した「くさり橋」を架けることを提唱した人物でした。ブダペスト市街のドナウ川に架かる荘厳な『くさり橋』はドナウ最古の橋として、観光スポットになっています。伯爵はさまざまな場面で国家の発展に貢献しましたが、「くさり橋と競馬をつくった人」として親しまれています。 世界的な規模でみれば、現在のハンガリー競馬は日本の足元にも及びませんが、キンチェムやキシュベールが活躍した時代も確かにあったのです。 もともと私たちの国は馬とは強い結びつきがありました。国土の3分の1を占めるハンガリー大平原。この地にウラル地方のアジア系遊牧騎馬民族を祖先とするマジャール人が移ったのが9世紀、日本では平安時代の初期の頃でした。 この当時のマジャールの馬は蒙古系の小さな馬でした。この頃は身分の高い人物のお墓には馬も一緒に埋葬する週間がありましたが、発掘によってそれらの馬は小さなものだったことが知られています。その後、トルコやアラビアの民族と接したことによって、馬も交配・改良が加えられ、徐々に大型化したと思われます。 騎馬民族の名残は大平原のいたるところにみられ、さまざまな馬術ショーが行われています。民族衣装を纏い、裸馬5頭のうち後ろ2頭の背に立って騎乗するなどは、特に騎馬民族を彷彿とさせる勇壮なものです。 また、こうした馬術ショーのほかに、シーズンの3月から10月までは国際大会も含んだ障害飛越や馬場馬術など、数多くの競技会も行われています。 少しのPRをお赦し頂ければ、「ハンガリー戴冠1000年」のほか、大平原のホース・トレッキングや馬車によるツアーは、ヨーロッパ各国からの観光を集め、お楽しみ頂いています。馬以外でも国内に100を超える温泉のリゾートや、隠れた名品のハンガリー・ワインも私たちのお薦めするところです。 競馬ファンにはもちろん競馬場ですが、国内に競馬場はふたつ、いずれもブダペストにあります。ひとつはトロット競馬専門、もうひとつが「キンチェム・パーク」です。同競馬場は「ラコシュ競馬場」と紹介されたりしているようですが、ブダペストでは「キンチェム・パーク」と呼ぶのが一般的です。競馬場正門の横にはその名を冠したキンチェムの像が建てられ、訪れるファンを迎えます。例年6月にハンガリー・ダービー、ハンガリー・オークスなどのクラシックレースが行われます。 ただ残念なことに、キンチェム・パークは工事中で2000年にレースが実施されるかどうか、現在のところ明確なことを申し上げることができません。今少し時間を頂戴したうえで、私ども観光局にお問い合わせ頂ければ幸いです。 最後にPRが過ぎてしまったことをお詫び申し上げます。(談) |
キンチェムは13歳の誕生日に疝痛により死亡した。この日ハンガリーの教会はキンチェムを追悼するために鐘を鳴らし続けたという。キンチェムの骨格はハンガリーの農業博物館に展示されている。そして生誕100周年の1974年にはこの馬を記念してブダペスト競馬場が「キンチェム競馬場」と改名された。ここにキンチェムの銅像も建てられている。 |
←一応、キンチェムの絵。 |