2010年長崎写真記〜出島編

 さて。2010年に長崎旅行をして,最も驚いたこと。驚いたことを今でも記憶しているくらい驚いたこと。それは,「長崎に出島がない」ということです。
 長崎に旅行するんだから,そりゃあ出島に行きたくなるわけでして,そうすると,地図を開いて海沿いを見ながら出島を探すわけです。出島の形は中高の歴史の授業で習ってるから当然知ってます。扇型。あの特徴的な場所だから,すぐ見つかるだろう……と思って探すと,見当たらないわけですな。驚きですよ。長崎といったら出島だったのに。
 そんな出島でありますが,とりあえず出島の一部は残っているようなので乗り込みます。

中島川が意味ありげに折れ曲がってます
が,当時を直接反映しているわけではないみたい
長崎電話交換局の跡 出島南東端
道路の色がかつての出島の範囲とのことです
商館跡 南側護岸石垣 西側護岸石垣

 てことで,出島に入っていきます。
 基本的には内部は「出島博物館」といった感じ。当時の建物を適宜再現したり,残存遺構を展示したり。「出島」としての形は喪失しておりますが,区域としての出島はそれなりに維持しようとしている様子です。交通事情もあって簡単にはいかないみたいですが。金を突っ込んで遺構を復元したとしても,そう簡単にカネになりそうにないしな……という制約の下で,今もなお復元への動きはいろいろあるようで,このページこのページもなかなかしっかりしております。ホームページの出来映えって自治体のやる気を示すいい指標ですよね。2015年にもなってスマホ用のページを作らないでおいて廃止反対とかいってる千葉競輪は滅びてしまえ。


瓦敷きの側溝 建造当初の石垣と荷揚場築足し石垣。写真にするとなにがなんだか
倉庫 天秤皿。たぶん実演がある
一番蔵〜カピタン部屋。カピタンってのはたぶんCaptainと同語源だな。
どうでもいいけど,このあたりの解説の写真が軒並み曲がっていて(アップするにあたって若干修正してる),
疲れてたのか,時間がなかったのか……。せっかくの出島なので,もうちょっとしっかりすればよかった。
ポルトガル船模型
オランダ船の来航 リーフデ号模型。300トン積み,大砲18門とのことです ブロンズ製12ポンド砲
VOC アムステルダム オランダ船の絵 取っ手
どんな動物だろうか
乙名部屋

 てな感じに,あらためていろいろな展示品の写真を眺めている次第ですが,最近元豪商の展示とかにそれなりに行ってるせいもあって,記憶がかなり混乱してるな。でもまあ,こうやって少しでも思い出せるのはいいことだ。撮影可能な建物万歳。
 てことで,おそらく誰もついてきてないのを承知で,自分のためにこのまま続ける。カピタン部屋と乙名部屋は同じ建物かと思って今見直したら別棟だった。そういえば裏手をうろうろしたような遠い記憶もあるな。ううむ,だめだ。

水溜 17.5畳の部屋
客間
解説はあれど写真はなく
涼間。この部屋よいですね!
桑名六華苑のサンルームを思い出します!
(注:思い出してるのは2015年時点であり,訪問順序は逆)
居間
図書室 女中部屋 15畳の部屋
砂糖蔵の再現 蔵が並ぶ

 てことで,建物内はここまでかな?このあとはその他の施設を見て歩くことになるわけですな。

用水池と時鐘 ケンペル・ツュンペリー記念碑
「ツュ」ってのはなかなか珍しい
バドミントン伝来の地
具体的にこの地に伝来した
わけではないでしょうが…
まあ,出島にやってきた
オランダ人が持ち込んだゲーム
ってことだろうな
キャピタン橋と葡萄棚
なぜカピタンでなくキャピタンなのだろうか
鉄製大砲 消えかかってるけどVOC
出島再現 大手門 水門 出島の範囲 フレンドシップメモリー
オランダ石門 VOC 旧出島神学校
デジマノキ 居留地時代の地番境石 御禁制の札
陶製の門柱。門柱全体の写真を撮らなかった理由は我ながら不明 カピタン部屋裏 料理部屋
外周の塀 出入り口 西側護岸石垣
三回にわたって増築されてるのがよくわかる
入口 出島南西端。いまさら道を帰ることもできないのでこうやって示してるわけですな
苦肉の策とはいえ,こういう努力が見られるのはすばらしい
南側護岸石垣

 そんなわけで,出島観光終了。
 出島が出島でないという衝撃的な事実を知れたことはもちろんよかったですし,長崎としても出島出ないで島を何とか出島らしくしようとがんばってるのが分かったのでまあよかったかと。

 てことで,旅行を続けます。

 長崎の旅行というと,出島以外で思い浮かぶのは2カ所。原爆関連施設と,国宝大浦天主堂。時間的に両立は厳しい。というか,すでに国宝崇福寺を捨てている。
 てことで,今回は大浦天主堂に行きました。大浦天主堂は教会ですので,内部撮影禁止です。てことで,残っている写真が少なく,自分の印象も薄かった。大浦天主堂と原爆資料館のどっちに向かうか悩んだ記憶はあるんですが,なぜか大浦天主堂の記憶が完全に吹っ飛んでおりました。
 でも,写真が残ってるんだから行ったのは間違いない。ほんと,なにしに行ったんだ……人の記憶はかくもはかないのか。しかしまあ,大浦天主堂に行ったことをしっかりと思い出せただけでも,この写真記を作った甲斐があったというものです。いやはや,われながらびっくり。

 せっかくなので,大浦天主堂について調べてみよう。自分の知識は,ここが唯一の教会国宝であり,日本現存最古の教会であるってことだけ。さあWikipediaよ,助けたまえ。
 ってことで,本体のホームページも合わせて見ますと,正式名称は「日本26聖人殉教者天主堂」。なんと,最初に見た二十六聖人殉教と関係があったんですね。正面にあるマリア像には,“信徒発見記念”とあり,いったいなんなのかと思ったら,この像が「日本に数多くのかくれキリシタンたちがいたというビッグニュースが全世界に伝えられた後、フランスからその記念に贈られてきたもの」ということのようです。なんと!隠れキリシタンがたくさんいるのは別にかまわないとして,それがフランスに知れてマリア像が送られるってのはなんとも面白い。フランスから来たってことは,ある意味日本版自由の女神だな。Wikipedia情報だと,なんかこの信徒発見が東洋の奇跡と呼ばれ,しかもカトリックの祝日になってるとか。ほんまかいな。すごいな。
 また,長崎なんていう軍港にありながら,ここの鐘が戦時中も供出を免れていたってのも興味深い。日本軍がキリスト教に理解があったとも思えんのですが,なにがあったのだろうか。

大浦天主堂へ 人がいなくなったので再撮影
したところ,写真が曲がった図
信者発見100周年 ヨハネパウロ2世 簡素なお庭 信徒発見記念
日本之聖母

 そんなわけで,続いてグラバー園。
 あ,そういえば,ここで重要情報。実はゴールデンウィーク初日ということもあり,長崎のホテルが全滅してました。恐るべき長崎。いやですね,このころのNPは無知でして,「ドーミーイン」ってのがドミトリーの安宿だと思い込んでたほどでございました。そんなドミトリーの宿すらも埋まってたのであります。てことで,この日の宿は漫喫に行かざるを得ない。それが確定したのが,たぶん大浦天主堂に行く直前(てか,ゴールデンウィークなのにこの時点まで宿探ししてなかった)。

 そんなこんなでグラバー園。グラバーさんが作った場所ですね。最初に長めのエスカレーターに乗って上にあがり,そこから降りていくかたちだったのは覚えております。時間があまりなかったので駆け足的に。まあ,この手の西洋人の邸宅って,やっぱり記憶が混同しちゃいますな……。混同してる時点であまり興味がないんだろうけど(城とかはそれなりに違いが記憶に残ってるしなあ)。

居留地境 造船所等を眺める
夜景はきれいなんじゃなかろうかと
日本最初のアスファルト
日本最初のテニスコート
バドミントン発祥の地よりは「ここだ!」ってことでわかりやすい
長崎名物ミルクセーキ 旧オルト住宅 西洋料理発祥の地
ローソクを使用した信号灯 ドラ キリンビールのラベルのもとになった狛犬 お庭

 最後は,路面電車で移動して(ここの移動で路面電車使ったのは覚えてる),夕食(兼昼食)で長崎名物トルコライス。味それ自体は想像を大きく超えるものではなかったですが,これに「トルコライス」という名前をつけて異国間とわくわく感を出したのがスゴイ。
 ところで,「思案橋」ってとんでもなく美しくていいネーミングですよね。このあたりのセンスの良さが,なんとも長崎的。

賑町の恵美寿神社 きっちんせいじのトルコライス 暮れゆく眼鏡橋

 てことで,無事漫画喫茶でフラットシート確保。横になって寝ることができました。いやあ,もし満杯だったらどうすればよかったんだろうか。考えるだけで恐ろしい。
 「旅行先で漫画喫茶泊」ってやってる人をネットで散見しますが,みんな勇気あるなあ。次に自分が旅先でネットカフェ泊をするのは,2014年の尼崎までいかないとないんだよなあ(普通に東京でネカフェ泊,ならありますが)。

 そんなわけで,翌日は佐賀です。正確には鳥栖です。
 ちなみに,長崎県にはこのあと佐世保&平戸に,さらには大村にも訪れることになります。長崎に短期間で何回も訪れることになるとはなあ。あと,やはり長崎は短く見積もって1泊2日は必要だということがよく分かりました。やはり歴史ある町だけのことはある。次回はもう1回進化した出島を見たいし,やはり最低1泊2日は必要だなあ。

長崎前半へ佐賀競馬


旅行記