ヨシノギオン

 跳ばない奴はサガン鳥栖、でおなじみの通り、福岡と佐賀は仲がいいかというと多分よくないんでしょうが、旅行者にはそんなことは興味が無いのでフェリーで早朝小倉、そこから福岡に移動し、さらに佐賀へと向かうのであります。

1 櫛田神社

 毎度毎度、福岡といえば櫛田神社であります。丁度節分の直後で、まだ巨大なおたふく面が残っておりました。これ、全然意識したことがなかったのですが、おたふく面って場所によって表情が異なるのですね。楼門側は笑顔。もう1つは若干瞳が見えているデザインでありました。顔にもなにか意味があるのだろうか。

おたふく面がお出迎え 狛犬もお出迎え 力石 楼門側おたふく面
干支恵方盤 楼門 由緒書き 手水鉢。山笠の絵が 神門
解説 山笠の神輿 博多べい

2 リレーつばめ

 電車に乗って西を目指します。時間の関係で特急しかありませんでした。リレーつばめなる特急。おそらく、九州新幹線が全面開通するとリレーする必要が無くなってなくなるやつですね。電車にはそこまで詳しくないのですが、多少の興味はあるので、こういうなかなかレアな奴に乗れたのは良かったです。
 そして、鳥栖でかしわうどんを食しつつ乗り換えてこの日の第1目的地、吉野ヶ里遺跡へと向かいます。

そんなに興味ない奴が適当に撮った感ありありのリレーつばめ外観と車内
かしわうどん
何番線のがおいしいとかいう都市伝説があったりするはずだけど
そこまで興味は無い
今も走ってるJR九州の鈍行線

3 吉野ヶ里公園

 そしてやってきました。みんなが知ってる一級遺跡。吉野ヶ里遺跡です。登呂遺跡とセットで覚えている遺跡ですが、「何年頃の遺跡か答えよ」と問われても答えられないくらいには知識は劣化しています。とりあえず、Wikipediaにリンクを貼りながら復習しておきます。

 そんなわけで、吉野ヶ里公園駅から吉野ヶ里遺跡を目指します。公園の中に遺跡がある、という立て付けのようですね。公園までの道すがら、軽トラ市が開かれておりました。

吉野ヶ里公園駅。電車はおおよそ30分に1本 あと700m あと650m 軽トラ市開催中

 そして、歴史公園センターから入場。
 パンフレットもダラダラと載せてますが、2022年9月12日時点で、吉野ヶ里公園のホームページ上の復元建物紹介が優秀なのでこれを見るといいことがありそうな気がしてます。

綺麗なアーチ 公園パンフ 園内マップ ゲートを通って天の浮き橋へ
遺跡パンフ 歴史公園事業概要

 吉野ヶ里遺跡はいくつかのゾーンに分かれており、東の入口から入ったので南のムラから攻め上がることにします。まずは最初に注釈から。吉野ヶ里遺跡で復元調査が完結できない箇所については、日本の他の遺跡、そしてものによっては中国の遺跡をも参考にしたとのことです。


3.1 逆茂木(乱杭)

 Wikipediaによると、ここ吉野ヶ里遺跡は「吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である」とのことで、その防御遺構の1つが、この逆茂木と堀。
 堀の外に木の柵があり、堀の内側に逆茂木が並ぶ、という仕組みになります。
 堀は浅いですが、おそらくこれは復元と保存と展示のために浅くしているのではないかと思います。


3.2 南のムラ

 まずは南のムラ。地図の南北が統一されていないので理解するのに若干悩むんですが、まあ難しいことは気にしない。
 中は南の一家、中の一家、ムラ長の一家、北の一家の4つの”一家”の家が並んでいます。


3.2.1 北の一家

 なんか居酒屋見たいな名前ですね。
 いくつかの竪穴式住居の中では、糸作り、布作り、養蚕と違うお仕事をされているようであります。

北の一家 竪穴式住居
一家の倉
ネズミ返しはついてないんですね
糸作りの家
蚕作りの家 遠くを眺める

3.2.2 ムラ長の一家

 続いて、ムラ長の一家です。小規模な住居や倉庫以外にも、集会所や大きな倉があるのが特徴とのことです。

ムラ長の一家 住居群 竪穴式住居の中
大きめの倉庫。食料が入っております
支柱にはネズミ返しがありますね
集会所
竪穴式ではなく、普通に木造建築物です

3.2.3 中の一家

 中の一家。農作業をしながら鉄器を製作し、船から物資の荷揚げもしていたという多方面に活躍していた一家のようです。

中の一家 屋外調理場 建物の様子 遠くに櫓台が見える

3.3 南内郭

 南内郭。ここには正門と脇門があり、正門は櫓門になっている、ということです。松山城の筒井門と隠門のような関係でしょうか。違いますね。自分の記憶がぶっ飛んでるのではっきりしないのですが、このあたりの堀は薬研堀になっており、さきほどの堀よりも深いです。なんか深くする場所を間違ってるんじゃないかという気もしますが、単に写真を撮る場所の問題かもしれません。また、畝堀のようにちょっと堀を横切ってるものがあるようにも見えますが、これは本当に畝堀的なものなのでしょうか。
 また、ムラ長のまわりでなく、そのちょっと脇にこのような軍事スペースがあるのは、二の丸御殿と本丸天守の関係なのでしょうか。
 いかんせん写真を撮ってる場所が合ってるのか自信がないので、あまり触れないことにします。


 なお、どうも私は最初ここは軽く見るだけにして、、最後に返ってくるときに南内郭をしっかりと見ていったようです(全く記憶にない)。あとで見返す都合上帰りに見たと思われるものもここに突っ込みます。

南内郭に復帰 物見櫓とそこからの景色 北内郭。主祭殿が目立ちます
こうやって見ると中世城郭にも通じる気がしますね
「王」の家
大人(だいじん)の家 「王」の娘夫婦の家


3.4 倉と市

 続いて、倉と市。
 このあたりまでくると、堀と郭がかなり複雑に入り組んでおり、中世城郭と言われても納得してしまいそうになります。

倉と市 「市」の読み方は
「し」と「くら」の2通り
説があったのかな?
この辺りの眺め 塀に囲まれた倉と物見櫓
貢物の倉 稲籾の倉
原料の倉 てつ・どう・すず・なまり 八幡製鉄所のお金を使って参考展示 武器の倉
武器の倉内部 武器の倉を抜けると、
広々とした建物群
祠堂 兵士の詰所
市楼 市楼内部 市楼からの眺め 倉を見下ろす
階段が外されてますね
物見やぐら 雷のときは立入禁止 上からの眺め ぐるっと見回す
環濠と土塁 兵士の詰所(北) さらば!

3.5 北内郭

 続いて、北ゾーン。北内郭へと向かいます。

北内郭、北墳丘墓、中のムラ 酒造りの家

 北内郭。今度の入口は冠木門です。これはどこまで資料に基づいているのだろうか。そして、冠木の上に乗ってるオブジェ(2羽の鳥?)はなんなのだろうか……(※吉野ヶ里公園のQ&Aに答えがありました。「弥生時代、鳥は稲などの穀物の霊を運んできたり、悪霊から守ってくれるシンボル(神の使い)とされていたようです。」ということで、当時の空気に思いをはせる意味で鳥を設置したようです。)。
 発掘跡の空撮図を見ても、環濠が二重に走っているのが分かります。厳重に防御を固めておりますね。塀の高さもあいまって、一人で迷い込むとかなり圧迫感があります。もちろん、漆喰で固めているわけではないのでどこまで火攻めに対抗できたのかは分からないですが。
 内外の塀と冠木門でガードが固められておりますが、ここがきちんと虎口になっていて折れ曲がっております。この時代からこういう仕組みができあがってたのですな。

北内郭へ 外側の冠木門
外側の環濠 内側の冠木門 内側の環濠 塀ごしに主祭殿と物見櫓が見える

3.5.1 主祭殿&銅鐸

 中に入ると、まず目立つ位置にあるのが主祭殿。高床式のフォルムがなんとも印象的です。これ、足の位置は礎石なり穴なりから分かったとして、その上のフォルムはどうやって解析したのだろうか。高さ16.5mはおそらく中国に残っていたなにかのコピーだろうけど。


 細かいことは気にせず、中に入ります。
 階段前に設置されているのが、かの有名な銅鐸。みなさん、小学生の頃習いましたね。そして、みんなが疑問に思ったこと。”これは一体どうやって使うものなのか”。その謎が今解けます。中に銅の棒を入れて鳴らすのであります。
 まあ、Wikipediaを見る限り(その後、色々な博物館で意識して見てるけど、おおよそ似たような感じの説明)、実は用途はまだまだ明らかになっていないようなので、本当にこの使い方が正しいのかは分かりません。ただ、人生で初めてならしてみた銅鐸の音は、非常に硬い音でしたが、ビックリするくらい大きな音が出ました。これ、もちろんこれを書いている時点で訪問から10年以上経っており、具体的な音を明確に覚えているわけではないのだけれど、それでもなんとなくの音は記憶しています。それほどに、ここで銅鐸を叩いて音を聞いたというのは自分にとって重要なイベントだったのであります。
 実際に音を聞くと、楽器説、あるいは少なくとも何らかの目的で内側から鳴らしていた、という説に納得してしまいます。もちろん、外から叩いたらどういう音になるのか試してないので外から叩いた音を聞いたら考えが変わるかもしれませんし、これを別の目的に使っている姿を見たらまた考えを変えるかもしれません。手のひらは返すためにあるのです。

樋棟。てっぺんについていたものらしいです みんなの憧れ、銅鐸!
中ではお食事会
偉い人が女性を侍らせるのは今も昔も変わらない?
赤い服が吉野ヶ里、緑服は外の人、という説明を
こちらのブログで見ました
最高司祭者の神がかり

3.5.2 高床住居、物見やぐらその他の建物

 続いて、高床住居。正方形であることから、司祭者の住居だったと推定されているとのことです。1階部分に網代があるのが気になりますが、なぜ司祭者の住居には網代があるのだろう?


 続いて、物見やぐら。懲りずにまた登ります。登れるものは全部のぼるのであります。


 そして、東祭殿。東祭殿を抜けた道からの眺めが虎口っぽくていい感じだったんですが、写真撮り損ねてました。



3.6 北墳丘墓

 最後に、北墳丘墓ゾーン。

3.6.1 甕棺墓列

 まずは、甕棺墓列。ぱっと見、スキーのモーグルコースみたいですね。弥生時代の北部九州のみにみられる特殊な葬送様式、とのことで、大変興味深い。この文化を持っていた民族が他民族に滅ぼされた、ということなんでしょうか。それとも、他に何か理由はあるのでしょうか。甕棺墓のWikipediaによると、「縄文後期・晩期の遺跡からは、日本各地(東北〜近畿〜九州)で甕棺墓の風習があったことが判っている。その後、弥生時代前期から中期の北部九州において最盛期を迎える。」とあるので、今の研究だとちょっと違うのかもしれません。それにしても、2022年9月12日時点で、この説明を注釈無くしていることに違和感を覚えるのは私だけでしょうか。誰の研究なのよ。


3.6.2 北墳丘墓

 甕棺墓列の先には、祠堂、そして北墳丘墓があります。祖霊の宿る柱という、お寺の回向柱のようなものも立っておりますね。

祠堂。目の前に解説板がありますが、どうやら撮り忘れたようです 解説板。北墳丘墓のうち、遺構面と甕棺は現物であるとのこと
北墳丘墓パンフ 中に入ります 雷注意

3.7 中のムラと倉庫群

 中のムラと倉庫群。最後なので、おおよその雰囲気は分かっており、軽く流す感じになります。この辺りの倉庫はやはり高床式。ドラえもんじゃなくてもネズミは嫌ですね。
 あと、屋根の形がちょっと特徴的ですね。単に写真の角度の問題なのかな?


 というわけで、吉野ヶ里遺跡見学終了。
 北墳丘墓、甕棺まわりの発掘研究にお金が入っているのもよく分かりました。が、私のような素人は分かりやすい環濠の出来具合なんかに目が行ってしまうのであります。

手荷物預かり自転車レンタル 吉野ヶ里公園駅 三田川饅頭

 というわけで、佐賀へ。
サガノリュウゾウ

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