なやましきかなやまその2

 南曲輪には,模型があったり休憩コーナーがあったり,トイレがあったりと,観光客向けの施設が揃っております。模型はなかなか興味深いんですが,写真にするとイマイチ。
 こちらの休憩施設では,ハイキングの方々が多数休憩しておられました。よく知らなかったんですが,このあたりはハイキングコースになっているようです。
 南曲輪の遺構自体はよく分かってないのだろうな。


300分の1模型

南曲輪

 てことで,最後に日の池を見下ろして,御台所曲輪〜本丸へ向かいます。御台所曲輪が二の丸かと思ってたら,二の丸は別の場所でした。
 そして,この曲輪にはなにか火事の跡のような状況。……と思っていたら,その後高山神社の火災のニュースがあり,この新田神社の火災との関連が調べられているとのことでした。なんと,もし放火だとしたらとんでもない話だな。
 そして,この先は神社の境内ということで,現時点ではあまり発掘調査は進んでいない様子。ということで,石垣も基本的にはここまで。思ったより奥行きがなかったな。序盤(西矢倉台まわり〜馬場曲輪)が期待以上だっただけに,大手虎口からの石垣が案外あっけなく終わっちゃった感じがします。でも,ここまでは非常に楽しめました。素晴らしい。

日の池 鳥居
新田神社の表参道から登ると
ここに到達するんだと思われます
火事の跡 本城解説 金山の大ケヤキ
御台所跡 本丸へ

 で,本丸新田神社へ向かいます。新田神社は,わりと新しめの鳥居や狛犬がある一方で,脇にある神社は崩壊しかかっていて,お金があるのかないのかよく分からない感じ。
 また,昔の教育委員会の解説もいくつか残っております。その中に,「金山城平面図」という消えかかった地図があり,消えかかってはいたものの,この地図のおかげで北城に迎えたので助かりました。この地図だけで北城に突撃した自分の判断の当否はまた別問題。
 あと,この解説に「日本式山城と朝鮮式山城の混合形式」とありますが,これ本当でしょうか。ここでしかそういう解説を読んでないような。
 
 なお,天守曲輪の解説に「西北の角には金山城最大の石垣が使用されており」とあったので,西北部分を目指してうろついたところ,神社の裏に人の石像発見。神話に詳しくないので,これが誰だか分かりません。

狛犬と鳥居。特にチェックしませんでしたが,見たところ新しい 拝殿 修復奉賛会発足趣意書
昭和52年のものなので,40年近く前です
アップにすると
なんとか見える
御嶽神社
なぜここまでボロボロなのか
梅若稲荷神社
願事は何でも可能とのことです
皇族方の腰掛石
金山城解説 この地図が頼り 天守曲輪 系図 過去の新聞記事が張り出されておりました
子孫の中に,
必ず大軍を起こす者がある
という願文
ではないかと思う
神社裏の様子 稲荷下の鳥居


 さて。せっかくここまできたからには,北城を目指します。駅でもらったパンフレットは北城方向には使えないので,頼りになるのはさっき天守曲輪で撮った写真1枚。あらためて書きますが,これだけで突撃するのは無謀だな。
 まず,そもそもどこを通ると北城に行けるのかからしてよく分からん。稲荷神社の階段を下りて,右折すると一応堀切に到着。さっきまでとはうって変わって整備された観光地感がゼロになりましたが,それでも堀切はかたちよく残っていて,進む道が間違っていないことを感じさせます。
 なお,ここを進む右手が天守で,左手の柵に囲われている場所が二の丸にあたるのだろうと思われます。

 そして,この堀切を抜けると,天守曲輪の西北に出ます。そして,ここにこそ現れるのが,金山城内最大級の石垣遺構であります。ここの石垣は,見たところ見慣れた扇の勾配になってるように思いますが,どうだったのでしょうか。今後の発掘調査に期待したいところです。
 天守曲輪の下はわりと広いスペースで,「裏馬場」ということになっているようです。このあたりも今後の発掘に期待ですね。


竹がきれいです

 でもって,ここからいよいよ奥まった場所に向かいます。まあ,道はしっかりしてるんで怖さは皆無です。
 ただ,いかんせん頼りにしている地図があれだけなので,いったいどれだけ進んだら目的地が出てくるのかが分からないまま山を下っていくのが嫌ですね。下るのはいいんだけれど,下ったら登らなきゃいかんからなあ。
 しばらく進むと,堀切とともに,本城北端の解説板。解説板には推定復原図が描かれておりましたが,あくまで推定。左右に搦手道を切る堀切はしっかり残っておりましたが,それ以外はなにがなにやら。
 行きは先を急いでいたので堀切を眺めただけでスルーしましたが,帰りは気合いで矢倉台に上ってみました。一応いかにも矢倉台に上れそうな獣道は用意されておりました。ここが従前使われていたのか,それとも観光客が切り開いたのかは不明です。

実城に別れを告げる こんな道 解説板 堀切 進んでから堀切と矢倉台を振り返る
矢倉台 矢倉台のぼって西方向 同じく振り返って東方向 矢倉台から堀切を見下ろす 矢倉台に上る獣道 道中あった堀切っぽい切込み

 古いものではありましたが,看板がったので自分が進んでいる道が間違っていないことが確認できました(一本道だけど,やはり地図がないのは不安なのです)。自信を持って先に進みます。

 さらにすすむと,案内地図があって,その前にハイカーの皆様が。おお,ほかにもここを歩く人がいるのか。見るからに城ではなくハイキング目的っぽいけど。まあ,気にせずまっすぐ進みます。すると,山のまわりをぐるっと回るような道になり,また,「ぐんまこどもの国」という看板が登場。ほほう,この先にはぐんまこどもの国なんかがあるのか。ぐんまこどもの国にはどんな城があるのだろうか。

 それにしても,いかにも曲輪がありそうな雰囲気の山のまわりを回っているのに,上に上がる道が見つかりません。ううむ,困った。まあ,冬とはいえまだ時間は14時にもなってないので,暗くなって遭難という可能性はないんですが,いかんせんあの写真に撮った地図1枚で歩いてますのであまり深入りしたくない。というわけで,分岐が出てパニックになる前に引き返すことにしました。こどもの国は難攻不落であります。

 で,さっきの地図まで戻ります。そして,地図をよく見ると……こどもの国への道と,北城への道は違っていました。なんだと。
 というわけで,再度冷静に付近を見回すと,確かにもう1つ道が分岐しており,しかも「坂中城・長石方面」という矢印も出ております。

 そして,しばらく進むと……ありました!北城発見。坂中城という名称がメインのようですね。当時はどっちが使われていたのか分かりません。
 分からないと言えば,解説板です。日焼けして何が書かれてるのか分かりゃしません。こういうときに参考にすべきは先人たち。検索したところ,出ました。2011年の訪城記はこちら。3年でここまで日焼けするのか。

 せっかくここまで来たんだから長石とやらも見て行けばよかった,といまになって思うんですが,この日はここで満足して退却してしまいました。やはり地図無しに歩き回るのは若干怖い。

正面に見える山 そのまわりはこんな道 改めて地図を 矢印出てます
坂中城への案内 到着! 案内1 案内2 特に整備はされていない

 というわけで,戻ります。さっき見落とした馬場下曲輪をちょっとみて,実城入口へ。


 実城入口から,今度は西城に向かいます。どういうルートで歩くかちょっと迷いましたが,とりあえず駐車場までコンクリ道路を歩いて,そこから上に上がりました。上がった場所は広々していて,どうもここが西城跡地のようです。まだ発掘調査は行われていないようで,どこに何があったのかは不明なままです。
 そして,案内図によると,そこからさらに先に見附出丸があるようです。

 この見附出丸には,奥側・崖側に南土塁,北側・西城側に北土塁があります。現状ではこれだけ。南土塁も現時点ではかなり低く,おそらく風化したんでしょうが,当時はどれくらいだったのかは不明。北城と西城はまだまだ発掘調査が及んでいないことがよく分かります。あと,このあたりの絵図が全く残ってないんだろうな。ガイダンス施設でも城に関する絵は全然見なかったような記憶。

案内図 西城曲輪
現時点ではたんなる公園
筋違門と堀切
実際にこの通りに曲がっていたのかは不明です
出丸へ
出丸を見下ろす 向かって奥が南土塁 横から見るとあまりパッとしませんが
その分下へ向かった絶壁ぶりが
よく分かりますね
北土塁 虎口 見附出丸を振り返る 下へ 上を振り返る

 ハイキングマップを持っていたわけでは無いので,とりあえず手許のスマホのGoogleMapとGPS機能だけを頼りに適当に進んで下に下っていきました。
 すると,無事ガイダンス施設に到着。
 結果として,行きはタクシーで一気に上に登っていって,帰りにここに寄るという流れで正解だったように思います。少なくとも車で訪問していない以上は。

 このガイダンス施設は見るからにバブリーで,ここに突っ込むお金があるなら発掘調査に突っ込んでほしいと部外者的には思う次第です。2階の奥に金山城に関する展示があり,5分程度の映像があるほか,いくつかの展示。まあ展示は原本資料もそこまで多くなく,新しい施設ゆえの弱さが出てました。でも,脇に飾られていたジオラマはなかなかしっかりしていて興味深かったです。全般的に撮影禁止だったので何も残ってませんが。

 そして,タクシーを呼んで太田駅へ。なぜか戻りのタクシーの方が距離が短いのに2メーター分料金が高かったです。迎車料?

 で,高砂湯に向かったところ,まだ開いてませんでした。しかたなく浅草にもどって蛇骨湯へ。ここは初めて行きましたが,さすが浅草のど真ん中にあるだけあって人が多い。そして,気合いで露天風呂なんかもつくっちゃっていて,やる気が感じられます。その分湯船が狭いのが玉に瑕。

ガイダンス施設 ここから降りて来た 高砂湯。午後5時15分開店でした。残念。 かわって浅草蛇骨湯

 てことで,久々に山城歩きました。いやぁ,やっぱり城をまわるのは楽しい!
 あと,由良国繁についても今回初めてきちんと認識した次第。上杉謙信ファンでも北条ファンでもないので,このあたりのやり合いについてはかなり知識がないのです。由良国繁って,信長の野望的には正直「よく分からないうちに配下になってて下の方にいる」認識だったんだよなあ。かなり頑張ってたようで,ちょっとこのあたりのやり合いについて勉強してみたくなりました。多分しませんけど。

 金山城の発掘調査はまだまだ進んでいるようで,しかもかなり本腰を入れてやってるのが素人にも伝わってきました。北城や西城がもっとしっかり復原されたらまた訪れてみたいですな。

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