イワノサンゴクシ

1 三国志城跡地

 いよいよ、本日のメインイベント、石城山神籠石へと向かいます。
 神籠石へ向かう途中、ちょっと休憩がてら三国志城跡地に立ち寄りました。ここはちょっと前に閉鎖されたと聞いていたのですが、他方で今でも石城山神籠石のパンフレットが入手できるという説もあり、とりあえず廃墟の外観だけでも撮ってみよう、ということで駐車場に車を入れました。
 そして、今後の登城方法を検討すべくスマホをいじっていると……駐車場に停まっていた車の中から男性が近寄ってきました。工事業者の方か、それともこっちが廃墟窃盗だと思われたか……と若干身構えたところ、どうもこの三国志城に縁のある方のようでした。そして、このあと神籠石を見に行くと伝えると、車のトランクから神籠石のパンフレットをいただきました。こんな不審者に、なんとご親切なことを。ありがたやありがたや。


 しかしながら、ここで1つ懺悔しなければならないことがあります。
 この日、この男性に伺ったことは、話を聞きながらスマホにメモしてたのですが……Softbankの通信エラー時の私の自爆(SIMカードのエラーかと思い、カードを差しなおそうとしてカードを取り出すのに失敗してスマホが壊れた)の際、メモ帳のバックアップを忘れ、メモした内容がすべて吹っ飛びました。このとき飛んだデータは多くはないのですが(例えばイギリス留学中のメモはまた別の所に入っているので無事)、この日のデータが飛んだのは本当に痛い。後述しますが、せっかく親切にしていただいたのに……。本当に自分の愚かさが悔やまれます。
 ちなみに、「この手の場所で現地のおっちゃんにあることないこと説明して貰う」という経験はおそらく2014年の淀城以来ではないかと思うのですが、このときの旅行記を見ると、このときも「2014年秋に携帯を壊しまして,修理に出す際,メモのバックアップを取り忘れました」と書いています。同じミスを2回繰り返してるじゃないか俺は……。無念。

 とはいえ、人生悔やんでばかりいても仕方がありません。石城山神籠石にむけて出発です。

2 通行止め!!

 すると……。まさかの通行止めです。どうも先日の大雨で路肩が崩れたようです。いやいや、まだ中腹ですよ。どうしてくれるのよ!
 ここで問題は1つ。「通行止め」は車だけなのか、人間も通行止めなのか。
 まあ、路肩が崩れただけのようなので、車を進めさえしなければよかろう、なにより、反対側にも通行止めの案内が出ているということは、反対側から降りてくる車もいるはずで、つまりは通行してはいけないのはあくまで案内と案内の間の区間だけのはず。ということで、車を停めて人間だけ登山します。まったく、ただでさえ歩行距離の長い神籠石探索だというのに、時間と体力を消耗します。

まさかの通行止め!! 路肩が崩れております 反対側から見ても通行止 通行止めを食らった位置
ここからぐる〜っと歩いて登る

 とはいえ、不幸中の幸いとして、この日はスーツではなく普通の格好でした。別に上着や下着は大きな問題ではないのですが、靴が革靴でなく普通の靴だったのは大きい。
 そして、歩いてのぼった結果として、神籠石の駐車場に行く途中に登場する南水門に行くか行かないか悩む必要がなかったのは、まあよかったといえるのではないでしょうか。

3 南水門

 そんなわけで、歩いていると南水門への案内が出てきます。写真を確認すると、おおよそ20分くらい歩いて到達したようです。
 神籠石的なものを訪問するのはこれで何回目になるのか、記憶が色々と混線しているのではっきりはしませんが、とりあえず神籠石につきものなのがこの水門。山側からの水を外に流すための門であります。
 ここ石城山神籠石には、水門は東西南北合計4カ所発見されているようです。東西南北ときりがいいのは、水門に何らかの意味があるからなのか、たまたまなのかは私には分かりません。ただ、この石城山神籠石、色々と宗教施設が溜まっている場所のようで、それぞれがいつやってきたのかは分からんのではありますが、構造物に何らかの宗教的意味があってもおかしくないな、と思ったりはしております。

 南水門は思いっきり土砂の中に埋もれていて、言われないと本当にここが南水門なのか分かりません。というか、現地でも特に案内がないので、自分が目の前に見ている石組みが本当に南水門なのか不安でたまりません。一応現地でネット検索してこれっぽかったのでこれが南水門だということにしました。

ここを降りると南水門 コンクリの廃墟がありました
こういう近代人工物は
中に人がいそうで怖いな
いわれなければ
「南水門」だとは分からない
南水門 奥に礫が連なっている箇所があり、
不自然に立っている石がありました
何かの石碑でしょうか??

4 大師堂〜駐車場まわり

 いよいよ本体が出てきます。南水門から数分歩くと、赤色が目立つお堂登場。ネットで検索してもあまり出てこないんですが(みんないち早く神籠石本体なり石城神社なりに行きたいのでしょう)、地図を見る限りこれは「石城大師堂」というお堂のようです。詳細ははっきりしないのですが、こちらのブログが引用されているところによれば、廃仏毀釈でいったんは平生町の神護寺にうつされたものの、のちにこちらに戻されたようです。

 そして、駐車場に到着です。途中の通行止め区間がなければ、直接ここまで車でのぼってこられたのですね。時間と体力をロスしましたが、まあ仕方がない。

 駐車場区画には案内板があり、またパンフレットも設置されています。三国志城でパンフレットを貰わなくてもよかったのです。ただ、人のぬくもりのあるパンフレットとそうでは無いパンフレットとでは何かが違うのかもしれません。
 残念なお知らせとしては、ここには自販機がありません。思い返せば、三国志城の自販機で買っておけばよかったんでしょうが、これは失敗。まあ、水が切れて死ぬことはないだろうとはいえ、通行止め箇所からの無駄な山登りがあったので、体力的水分的にはちょっときついです。

大師堂 脇のお地蔵様 神籠石サミット開催記念植樹
石城山神籠石の案内 第二奇兵隊施設の案内 パンフレット
    
神籠石のパンフ 第二奇兵隊のパンフ

5 石城神社・神護寺跡・第二奇兵隊本陣跡

 これまではイレギュラーな山登りでしたが、これからは予定調和。指示通りに散策ルートを散策します。

 まず登場するのは、旧神護寺仁王門、現石城神社随身門です。
 こんな山奥にこんな立派な茅葺きの仁王門が出てきてびっくりするんですが、おそらくここにあった神護寺というのはかなりの規模のお寺だったのでしょう。
 ちょっと気になるのが、今随身様が安置されている、おそらくかつては仁王様が鎮座していたのであろう場所でして、なんというか、この規模の立派な仁王門があるのに、ここに入る仁王像ってちょっと小さくないですかね?どういう仁王像がおられたのでしょうか。

神籠石の解説 随身門(旧仁王門)の解説 随身門 随身様 門から先を見る 逆側から随身門

 そして、少し進むと石城神社です。かつてはここに神護寺の伽藍があったのだと思われます。また、第二奇兵隊の本陣があったのも、ここになります。

 この第二奇兵隊、当然ここに来るまで存在すら知らなかった訳ですが、そもそもの話として、奇兵隊についても「高杉晋作が武士階級以外の軍隊を作って維新で大活躍」程度の知識しかありません(これで合ってるのかも分かってない)。なぜこんな辺鄙な場所で訓練していたのか。
 てことで、例によってWikipediaを見ますと、色々と発見がありました。元々は大島郡の部隊なんですね。「大島郡」って言われてもこれすら最初にイメージできませんでしたが、いわゆる周防大島の大島ですね。そして、一旦活動不能に陥っていた真武隊を再編したものが、この第二奇兵隊に繋がる、ということですね。軍監として名前が出てくるのがみんな大好き世良修蔵。奥羽越列藩同盟を怒らせて戦争に踏み切らせたことで有名な方ですね。私でも知ってます。

 いずれにしても、神護寺のあった当地に第二奇兵隊の本陣がおかれ、ここで多くの兵士たちが訓練していた、というのは、今の(自販機すら無い)この地を思うと、不思議な感覚になります。それにしても、陣を置くにあたって、お寺の関係者はどこに行ったんでしょうかね。結構廃れたお寺だったんでしょうか。新選組と西本願寺の関係のように、この時代はお寺の大きなお堂が宿舎として便利だったんでしょうけど。

 そして、今ここに鎮座するのは石城神社。かつての神仏習合期には三社権現と呼ばれていたものが独立して石城神社となったようです。

 いずれにしても、かなり広々とした平坦な土地でして、おそらくここに神護寺のお堂が色々とあったのだろうと思うと、かつての姿をかいた絵図か何かがないのか気になりますね。全部焼かれたのか、移動後の神護寺に保存されているのか、どんな具合でしょうか。

仁王門から神護寺へ
向かう参道
右手は谷です 石城神社解説 鳥居 拝殿と本殿。本殿や拝殿の屋根が幣殿の屋根にくっついてるように見えますが
時代的にどういう順番でつくられたのでしょうか
須賀社 岸信介氏による七言絶句 明治維新百年記念 神護寺跡解説 第二奇兵隊本陣跡解説
広々とした本陣跡 奥には千手観音
解説には「獅子の穴」が載ってますが、
載ってることに気付いたのは今(2021年)です
先へ進む

6 西水門

 西水門へ向かいます。
 向かう道すがら、神籠石が一部露出しております。通路脇に石垣が見えている、というのは、1000年以上の時間が経つ間に石垣が土砂で埋もれ、そこから通路を整備するにあたって一部露出してきた、ということでいいんでしょうかね?
 なんにせよ、こんな立派な石が1000年以上も残っていたことに驚くほかありません。


 そして。さらに進むと、眼下にとんでもないものが登場します。西水門です。
 先ほどの南水門が、「たぶんこれだよね?」という程度のものだったため、あまり期待していなかったところ、大変立派な石垣の段組が登場してびっくりしました。
 正直なところ、「立派な石垣」であることは分かるものの、「水門」と言われるとどこをどう水が流れていたのか、イマイチ分からない部分があります。なお、光市の解説を見ると、「西水門では排水口は見つかっていません」と書かれていました。それでなぜ水門であると断定できるのか興味深い。

眼下に凄いのが見えてきました 接近します ここから降りてきました
いくつかの石をアップで。下に若干の水気がありましたが……
上流部から水門側へぐるっと見る ここからの眺め 逆側から見る西水門

7 北水門

 続いて、北水門への道です。
 このあたりの道路脇にも大きな石がありますが、これらが神籠石と関係あるのかないのかは分かりません。


 そして、先ほどの西水門の時と同様、歩くと眼下に巨大な石造りの施設が登場します。これは凄い。立派すぎて、「山の中の畑のために昭和に作られた石垣」だと思ってしまいそうです。
 いずれにしても、山の中にこんな立派なものをつくったなんて、マチュピチュもびっくりです。

眼下に広がる景色 下におりました 右手の石垣 ここから降りてきた

 目の前には90度に折れ曲がった石垣があります。「水門」というのがどのような構造だったのかはよく分からないのですが、どうも今水が流れている部分が水門……というわけではなく、ここから水が流れ出るのは本来の想定とは異なっていたのではないでしょうかね?とりあえず、向かって正面の石垣には排水口があるので、この石垣の奥には水があって、その水を外に排水していたのだろうと思います。
 とりあえず、排水口っぽい箇所にカメラを突っ込んでフラッシュを焚いてみました。中で休んでるコウモリや夜行性の動物がいたら申し訳ない……。

90度の折れ目の水の流れ 向かって正面の石垣 アップで
排水口 奥にフラッシュを焚いてみた あらためて石垣を見る 見下ろします

 この水門は両側の高台に挟まれた位置にあります。なので、見下ろした際の石垣美はなかなかのものでして、よくぞここを掘り起こして、石垣をしっかりと積んでくれたものだと、復元に携わった皆様に感謝であります。いや、ほんと美しいですね。

8 北門

 これまでは水門でしたが、もちろん人間様も出入りしなければならないので、人間様向けの門もあります。これがいくつあって、どのような形をしていたのでしょうか。例えば鬼ノ城の木の門なんかはインパクトあって印象的ですが、ここ石城山神籠石では、復元絵図まではできあがっていないようではあります。

 とりあえず、北門に向かう道すがらも石が並び、「龍石」というインパクトのある石があったりして、歩いていて飽きません。いやあ、車が通行止めになってからだらだらと山登りをしてきたことを思えば天国です。

こんな道を進みます
右下に石が並びます
龍石

 そして、北門。
 中世城郭に慣れた身とすると、門跡の左右にある列石が低いのでこの上に多門櫓的なものがあったのかな、と思いたくなりますが、果たして、どういう感じだったのでしょうか。少なくとも塀くらいはあったんじゃないかという気がします。あるいは、土の中にもっと凄いものが埋もれてるのかな?
 いずれにせよ、当時の絵図か何かがどこかから発見されて(あるいはタイムマシンが発明されて)、当時の様子が少しでも分かるとよいですね。

北門 列石の様子 ここの解説板は
北門でなく神籠石の解説
この段組の上に
門があったのでしょうか?
角っこの沓石 ここに門があったのか?
沓石 ちょっと上から見下ろす
なぜもうちょっと上に
登らなかったのかは
覚えておりません
北門跡のようす 下段の石垣もしっかりしています

9 版築土塁・人枡・東水門

 ここからしばらくなにもない区間が続きます。とはいえ、右手には列石が見えているのでそれなりに楽しいです。
 そして、ここで出てくるのが「版築土塁」という、聞き慣れない言葉です。神籠石の前面や上部を取り囲むように土塁があった、ということです。光市のページには「瀬戸内海と北部九州の山城の違い」という表があり、著作権を気にせず抜粋すると、

  瀬戸内海 北部九州
列石の加工方法 割石ないし一部切石 切石
列石の配置方法 列石の非露出(土塁に覆われている) 列石の露出

 とされております。つまり、列石が土塁に覆われる形式の神籠石は瀬戸内海特有のものなのですね。
 となると、今露出している列石は、土塁が崩壊した結果出てきたものだということになります。石城山神籠石を復元すると、列石は土塁の中に隠れてしまうことになるわけで、今後もし調査が進みあわせて土塁が復元される流れになれば、列石は土の中に帰って行くことになるわけですね。今を大事にすべきということであります。


道路 道路脇の列石
列石前にくぼみがあり、てっきり水はけのためかと思ってましたが
もしかしたら土塁部分を撤去
解説 土塁が露出している?

 続いて、「人枡」という案内のある場所です。特に解説がないので、どういう役割があったのかは分かりませんが、堀?で区切られた区画です。人枡、という名前は誰がどうつけたのかは分かりませんが、とりあえずこの名前からは、ここが独立した曲輪で、ここに人が集まっていた、ということなのではないでしょうか。なぜここにだけこんなものがあるのかはよく分かりませんが……。


 さらに進むと、右手に見えるのが列石ではなく石垣に変わります。東水門です。
 この石垣も土塁の中に埋まっていたのか、あるいはこの石垣はもともと露出していたのか、どちらなのでしょうか?ここの石垣の前にも溝がありますが、これも水はけのために後世につくったのか、かつて土塁があってそれを撤去した名残なのか。

石垣が登場します 東水門!
水が流れています 排水口 フラッシュ焚いてみた 逆側からみる東水門 石垣 さらば東水門

 その先にはちょっとした石垣があるのですが、これはさすがに現代になってつくられたものではないでしょうかね?
 下に置かれている石が、一応通路から区切られていてちょっともしかしたら昔のものかもしれないな、感出ておりますが……と思ってあらためて(これを書きながら)解説板を読んでみたところ、しっかりと説明されておりました。お恥ずかしい。

正面方向 石垣がありますが…… 解説
これを先に読めばよかった
修理事業の名残の石垣、ということになります。 振り返ります

10 宗教施設群(神道天行居)

 これで東西南北の水門を見終えたことになります。石城山神籠石の遺構は(いくつか見落としつつ)一応すべて攻略しました。
 ここから元来た場所に戻ることになります。いいかげん喉が渇いたぞ。
 で。ここからのルートは基本的に宗教施設が並びます。ここにある神社仏閣はいったいいつできたのか、調べてないですが、あまり見慣れない神様が多く、いまいちよく分からない部分があります。素人的に思うこととしては、神籠石はかつて宗教施設説があったレベルの場所ですから、もともと地元では神聖な場所であったのではないか。そもそも「山」自体が日本人にとって古くからある程度の神聖さをもったものですしね。で、そこに、いろいろな宗教家が、修験道の名残なのか神護寺に思い入れがあるのか、それとも下界で何か嫌なことがあったのか、理由は不明ながらも、いろいろな思いを持ってここに入っていったのではないでしょうか。まあ、あちこちにある仏像は、神護寺がらみなのでしょうが……。
 せっかく書いたので恥さらしとして残しておきますが、普通に石城山のWikipediaレベルで説明がありました。ここは神道天行居という古神道系の宗教団体の施設のようです。Wikipediaにもある団体ですね。(建物としての)日本神社がつくられたのは昭和4年とのことです。思ったより古かった。

 
ぶれたけれど、鳥居 神護寺の宿坊東坊跡にのこるお地蔵様と石塔 五十猛神社
「いたける」と読みます。
検索した限り「五十猛」と書いて「いそたけ」と読むのが一般
(ATOKさんも「いそたけ」から「五十猛」に一発変換できます)
島根には五十猛神が上陸した五十猛町があるようです
物部神社 さらに鳥居があります 蜘蛛の巣トラップがあります
葦原神社 石城島神社 若宮神社

 そして、日本神社。「やまとじんじゃ」と読みます。ここが中心的な施設のようですね。

日本神社 さざれ石 四季桜

 最後にいくつかのお社にお参り。

磐山神社 宇和奈利社

11 帰路・三国志城Again

 以上、石城山神籠石でした。
 帰りがけに、道路脇に露出している神籠石を撮影。歩かなければスルーするやつですね。


 で、喉が渇いたので自販機に寄るため、というのは口実で、三国志城の方がまだおられたのでお礼を兼ねて三国志城に寄りました。
 ここでの会話内容は既に記憶からぶっ飛んでるのですが、重要なこととして、すでに閉館していた三国志城の中に入れていただきました。どういう話の流れだったかは完全に忘れましたが……。中には、三国志に関する様々な資料や、もちろん神籠石に関する資料や展示などもありました。写真を撮らなかったのでそのあたりも含めて記憶から消えかかっておりますが……。なんにせよ、ご親切にありがとうございました。缶コーヒー1本くらいでしかお礼できませんでしたが(←こういうみみっちいことだけ記憶している)、あらためてこの場を使ってお礼を述べさせていただく次第です。



 というわけで、想像以上にしっかりとした遺構が残っていた石城山神籠石、まさかの通行止め、三国志城でご親切を受けたこと、などなど、極めて印象深い旅でありました。

イワノミヤジマイワノニイデラ


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