比叡山2020

1 東寺

 さて、翌日は、友人が何時頃から動けるか分からないので、とりあえずホテルの近くにある東寺を攻めます。
 前回東寺を訪れたのは2018年のことでした。あのときは有料ゾーンに入りましたが、今回は無料ゾーンだけをふらふらします。

五重塔が見えます 山門 弘法市開催中止のお知らせ
朝のお勤めが終わったのかな?お坊様方の行列が出ていました。ただ、カメラマンがいたので、もしかしたら何か特別なものがあったのかもしれません

 今回東寺でこなしたかったタスクは1つ。前回見逃した、小野道風ゆかりの柳の下に彫られているとされるカエルを見つけることです。
 が。今回はちゃんと探したのみ見つかりませんでした。無念。
 仕方がないので、蓮池に咲く蓮の花を愛でて風流な気持ちになっておきます。ご承知の通り、蓮の花は早起きしないと見られないので、自分としてはなかなか見られない花の上位に君臨しているのであります。

小野道風ゆかりの柳 下にはカエルはいなかったけれど、カメならいました
早起きの特権です

 このあと、前回と逆ルートで伏見稲荷大社の御旅所に立ち寄り、友人と合流。比叡山へと向かいます。
 空海さんの東寺から、最澄さんの比叡山へ。日本人的には宗教なんてなんでもありなのです。

2 比叡山:東塔

 昨日近くまで行った鞍馬寺についてもそうなんですが、実はわたくし、京都のお寺については名前は知ってるものの何がどこにあってどうやって行くのかとか、全く知らんのです。というか、そもそも比叡山が京都では無く滋賀にあるというのも「そういえば言われてみればそうだよな」という具合でして、とにかくな〜んにも分かっていないのであります。まあ、それもそのはず、物心ついてからというもの「京都に行く」といえば「京都競馬場に行く」と同義でありまして(仕事で行ったことが1回あるけど)、観光に半日以上かかるような場所など眼中になかったのであります。
 そんなわけで、一般には、「外国人観光客が少ない」から観光するという動きのようですが、私は違います。新型コロナウィルスによる競馬場入場規制がかかる今こそ、京都観光の大チャンスなのです。

 てなわけで、まずは東塔。これも行ってから知りましたが、比叡山は3つに分かれていて、東塔・西塔そして横川です。場所的には、東塔と西塔が比較的近く、横川がちょっと離れております。この3つが一体となって「比叡山」を構成しているのですが、歴史的に最澄さんがどこにやってきてどこがスタートなのか、実はよく分かりませんでした。根本中堂が東塔にあるので、おそらくはここが出発なのだと思いますが……。
 あと、行って分かったのが、この3地域は車で巡らなければならないほど広い、ということです。比叡山というからには1つの山かと思ってたんですが、そんな甘っちょろいものではなくもっと奥深いんですね。昔からよく「義経が鞍馬寺にいました」とか、「●●が高野山に流されました」とか聞くわけですが、漠然と「寺に行ったらそいつがいるんだから、発見・暗殺は割と簡単なのでは」と思ってたのです。が、そういうレベルの広さじゃ無いのだな。東京でせせこましく生きて小さな寺院ばかり見てると、この広さのイメージがわかない。特に、「京都」というと場所が狭いイメージだし。

 その上で。
 比叡山といえば、僧兵です。私は自分が戦うのは嫌ですが、他人が戦っているのを無責任に眺めているのは好きな人間ですので、「比叡山の僧兵が京都に乗り込んで朝廷に圧力を掛けました」なんていう歴史物語は大好きです。この僧兵、普段はどこにいて、どういうルートで京都に乗り込んだんでしょうか。そして、織田信長はどこからどう攻め込んで、どこをどう焼き討ちしたんでしょうか。
 これもここに行くまであまり意識してなかったんだけれど、織田信長って坂本方面から比叡山に殴り込んでるんですよね。比叡山側は、坂本側に対してどれだけ防御を固めてたんでしょうか?焼き討ちで大活躍したとされる明智さんがのちに坂本を与えられていることからして、比叡山と坂本の結びつきはかなり強そうではあるので、坂本ルートも登山ルートとして一般的、というか食料調達とかはこっちがメインだったんだろうと推察しますが(今みたら坂本は延暦寺の門前町として栄えていたらしい。なるほど、そりゃそうか)、僧兵さんたちはどっち側を防御拠点と考えていたんでしょうかね。

 というのが、歴史について全く詳しくない素人の放言であります。
 比叡山に行けば、このような素人の無責任な好奇心を満たす何かがあるのではないか、「仏敵織田信長による焼き討ちについて」という資料館があったり、「明智光秀に虐殺された僧侶たちを慰霊するための慰霊塔とそれについての解説書」くらい売られているのではないか、と期待しておりました。

比叡山巡り案内マップ
扱いが悪くてまわりが折れ曲がってます
パンフレット 地図 霊園案内
さすがに高いですね


 てことで、東塔にはいります。まずは宝物殿を見物。空調が効いてるのでありがたい。もちろん、撮影禁止。
 そして、参拝。参道左右には絵看板。さすがに全部撮ってると疲れるので、いくつかピックアップ。
 なお、あらためて全体図を見てみると、これ、坂本側から見た図面なんですね。やはり坂本側のお寺なんだな。ということは、もしかして京都に出向くときも坂本経由だったりしたのかな?
 そして、弁慶のひきづり鐘の絵図の解説を見てると、三井寺との抗争の話も出てました(これを書きながら初めて解説を読んでいます)。とするとやっぱり坂本側なんだな。うん。

入っていきます 参道 菩提樹と沙羅樹 全体図
絵看板 伝教大師のご誕生
坂本の生まれだということを
初めて知りました
光秀さんといえば天海です 弁慶のひきづり鐘 弘法大師との交際

 んで。そんなに歩くことなく、広場に到達。「一隅を照らそう」という石標が目に入ります。これは今まで知らなかったのですが、どうも最澄さんが「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」と『山家学生式』に書いたのが発端のようです。山家学生式っていう響きは聞いたことがあるようなないような(なんとなく必殺技っぽい響きがあるので、気のせいである確率が高い)。あったとしても、大学受験時の日本史知識でしょうから、仮に実際に聞いていたとしても、耳にしたのは20年以上ぶりということになります。
 この「一隅」、「ひとすみ」ではなく「いちぐう」と読むようで、ぱっと見あらゆる場所(どんな片隅でも)ということかと思ってたらそうでは無く、天台宗によると「今、あなたがいる、その場所」という説明がなされております。一般名詞の一隅とはちょっと違う意味なのでしょう(あるいは宗教的意味が薄れて一般名詞の意味が変わった可能性もある)。自分も今初めて天台宗の「一隅を照らす運動」なるものを知りましたが、やっぱりこれまで天台宗と縁が遠かったのかな。うちの祖父母は真宗でお葬式挙げたし、四国はやっぱり真言宗が強いし、各地を回ってると戦国好き的にはやっぱり一向宗すなわち真宗が注目されてしまうのですな。というわけで、こんにちは天台宗。

 そしてもう1つ初めましてこんにちはだったのが、福田海。「ふくだかい」ではなく、「ふくでんかい」と読むようです。Wikipediaでは、中山通幽さんの記事がでました。この福田海の牛の鼻ぐり塚は珍スポットマニアが喜び勇んで出かける場所として知られているようです。

 そして、根本中堂に参拝。

一隅を照らそう 境内案内図 重要文化財の大講堂。昭和31年に焼失したのちに坂本から移築した、とあります。
それでも重要文化財扱いになるので、元々古い建築だったのでしょうが、いつのものなのかな?
ちなみに、解説では平家に対して強訴したことがしっかりと出ていて、このあたりは隠す気はなさそうです
鐘楼 宗教法人福田海の奉納牛像 根本中堂へ ここにも境内案内
有料です 写真はここまで 延暦寺の歴史 根本中堂の変遷と見所 改修のあらまし

 根本中堂のご本尊は解説によれば最澄自作の秘仏の薬師如来とのことですが、焼けずに残ったのでしょうかね?それともみんなの心の中にいるのでしょうか。
 特徴的だと思ったのが、内陣がまわりより下にあること(どうも3mも下らしい)。そのため、ご本尊(のある仏壇)が遠くにあるように見えます。この構造はほかのところでも似ていたので、比叡山全体がこんな感じなのだと思います。

 そんなわけで根本中堂の攻略を終え、続いては文殊楼。階段を上がった上にででん!とあります。ここも中に入るのに靴を脱ぐのですが右側から入って階段を上り、上でお参りして左側から降りてくる構造になっておりまして、靴を手に持って階段を上るのに一苦労。右と左の距離が近いので、どうも靴はその場に脱いで置いていくのが正解だったようです。文殊の知恵からはほど遠い、お馬鹿NPの失態でした。

階段を上ります。結構インパクトのある階段ですね 上から根本中堂を見下ろす 階段を見下ろす 世界平和の鐘は立ち入り禁止。平和への道は近くて遠いのです
解説 谷崎潤一郎からの引用 様々な角度から。寛永年間に焼けて再建されたようですが、いい感じに年季が入っております

 東塔ゾーンは本当は(区域の名の通りの)東塔があったり、重文戒壇院があったり、阿弥陀堂があったりもするようですが、そっちはスルーしました。
 代わりにどこで盛り上がっていたかというと、寄進者一覧。昨日のサンガスタジアムの矢作厩舎の流れで、一応名前を見ていたところ、まず発見したのは森友嵐士さん。肩書きはないですが、T-BOLANの森友さんでほぼ間違いないのではないかと。と思って上を見上げると、なんとなんと、見覚えがある名前。河崎五市さんです。八百……ハクサンの冠で有名な大馬主さんですね。八百……競馬で稼いでいるのか、本業で稼いでいるのか、おそらく後者でしょうが、とにもかくにも馬主業などという儲からない稼業に手を出す余裕があるだけのことはありますね。毎年大金を寄付されているようで、とても信心深いのだなあ、と。そりゃ馬買うよりも安いものな。

ゆかりって、焼いた側じゃないか まず発見したのは森友さん 河崎五市さん。2千万! 毎年寄付されているようです 裏側は漢文調

3 比叡山:西塔

 車で移動して、西塔ゾーンに移ります。なお、この記事を書くまで、「西塔」は「さいとう」ではなく「せいとう」だと思っていたことを告白致します。

 この西塔ゾーンの中堂は釈迦堂です。まずは、駐車場から釈迦堂に向かって歩いて行きます。完全に見落としたんですが、この西塔ゾーンには、瑠璃堂という、織田信長の焼き討ちから逃れた唯一の建築物があったようです。そのわりには、地図を見ても扱いが悪いですね。一応、重要文化財にはなっているようですが、他の歴史の浅い建築物と同じ扱いだということからして(それより上は国宝しかないのだが)、なんか残念です。もっとも、2020年10月〜11月にかけては瑠璃堂の内部公開があったようで(釈迦堂もセットで)、大河ドラマ明智光秀に合わせて観光収入を少しでも上げたい、という延暦寺の意気込みは感じられます。

西塔ゾーンへ 野生の猿がいるらしい
木下藤吉郎の子孫でしょうか
瑠璃堂の扱いが悪い!! まずはここを進む

 今となっては、「延暦寺は多くの僧兵を抱えた武力装置だった」という認識になっており、そういう頭で延暦寺の伽藍配置を見ると「このあたりは曲輪っぽいな」と見えてしまいます。これは当然に後付け知識でありまして、実際のところ昔はどうだったのかは不勉強な私の知るところではありません。
 とりあえず、親鸞上人や真盛上人が修行・修学されたところは、城の曲輪と言われれば納得する構造になっておりました。

親鸞上人御修行の地 真盛上人修学之地 苔がいい感じ 振り返って見る
折れ曲がり方が
城郭っぽい……
折れ曲がってにない堂へ

 さて、進んでいくと、常行堂と法華堂。2つ合わせてにない堂。ひらがなで「にない」とはこれ如何に、と思ってたら、「力持ちの弁慶がこの渡り廊下をてんびん棒にして、このお堂をかついだという伝説」があるようです。問題は、渡り廊下を天秤棒にしてお堂を担いで、何をしたかったのか、ということですな。可能性としては、弁慶が比叡山の人間に馬鹿にされて力を見せつけたか、常行堂と法華堂とで勢力争いをしているなかでどっちが重いか弁慶が確かめたか、というところでしょうか。どっちみち比叡山の人間がアホなんじゃないかという気がしてしまいます。あと、地味に凄いのは弁慶だけでなく、お堂の負荷がかかっても折れなかった渡り廊下を作った人だな。誰なのだろうか。

 それはそれとして、向かって右が法華堂、向かって左が常行堂。それを繋ぐ渡り廊下や周囲の空気を含めて、非常に雰囲気のよい場所です。絵にもなります。素晴らしい。

左が常行堂 2つ合わせてにない堂 右が法華堂
渡り廊下へ くぐります
下も綺麗です
逆側から渡り廊下
逆光の関係で角度が変ですが
階段から見上げます 階段を見下ろします
帰りはこれ登るのか…

 階段をおりて、釈迦堂へと向かいます。この一本道間は城郭っぽくないですね。
 途中、階段の左右に曲輪があり、西塔政所と、恵亮堂です。
 そして、中西悟堂さんの歌碑。恥ずかしながら、中西さんのことは存じ上げなかったのですが、なんとはなくWikipediaを見ていたら、日本野鳥の会の設立に関与されていて、しかも「「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語」とのことです。凄い。野鳥という言葉を作ったのか。

西塔政所は立入禁止 恵亮堂曲輪 円戒国師寿塔 中西悟堂の歌碑
恥ずかしながら知らない方でしたが、
ATOKさんは一発変換しました
恵亮堂

 下まで降りて、釈迦堂です。また階段を上るのかと思うとウンザリしますね。

釈迦堂こと転法輪堂。重要文化財です 法然上人御修行地 振り返る 平和地蔵菩薩

 さて、えっちらおっちら階段をのぼりまして、これにて西塔終了、というのが一般的らしいのですが(瑠璃堂の存在には気付いてません)、せっかくなので最澄さんの御廟があるという浄土院にむかうことにします。この道も風情がある道でして、元々人が少ないところにここまで来る人はさらに少ない、ということで、我々以外人がいません。のんびりできます。
 で、浄土院に向かう道は地形に合わせて蛇行しているんですが、谷の部分が、堀切に見えなくもない。まあ、多分先入観に基づく気のせい、ってことなんでしょうけれど、このあたりで切っちゃうとそれなりに防御には役立ちそうには見えます。曲輪間の距離が離れすぎてるようには思うけど。とはいえ、「独立した砦だった」と言われたら十分に納得してしまう構造ではある。これだけ広い寺院だし、お坊間で仲がよかったかというと絶対そんなことないだろうしな。

五十照隅塔 こんな道を歩いて行きます 見ようによってはこの部分が堀切に見えなくもない 上を見上げる
さらに進みます 最後に一折れ
人工の堀切でなくとも
天然の要害ではある
浄土院へ 水に見立てているのだろう
白い石が印象的です
噴水は停止中 お堂へ向かいます
浄土院本堂 照千一隅 庫裏側を見る

4 比叡山:横川

 東塔と西塔は割と近くにありましたが、横川区域はちょっと離れています。お堂は16時に閉まるとのことで、実はあまり時間がありません。
 なお、「横川」と書いて「よかわ」と読むと言うことはこれを書いている途中で知りました。現場で「よこかわ」と発音していたような気がしますが(ただ現場でそのような発言をする機会があったかは定かでない)、恥ずかしい限りです。

 この横川区域の中心をなすのが、横川中堂です。なんとびっくり、懸造のお堂でした。わざわざ懸造にしなくても場所を取れそうな気がするのですが、あえて懸造にしたのはどういう理由があるんでしょうね?他のお堂が懸造でないだけに、気になるところです。ということで、ちょっと検索してみたところ、Wikipedia師匠に説明があり、岩を信仰対象としていたり、岩を修行の場としていたりすることが由来のようです。ここを参拝した限りではあまり岩を重視しているような空気感はなかったのですが、もしかしたら何か大事なものを見落としたのかもしれません。
 いずれにしても、比叡山はどこも内陣が下にあって、御本尊が遠くに見えて不思議な空気がありました。

横川区域へ 参拝ご案内。西国三十三ヵ所の写し石仏もあるようです 比叡山と各宗祖師
時間がないので写真には撮らず
こんな道を歩きます あじさいが咲いてました
横川中堂 解説 正面から 護法石 離れたところから
中堂曲輪を撮る 右上に見えたのが赤山宮 赤山宮の下のスペース
なにかお堂があったのでしょうか
ここにもいました平和地蔵

 せっかく階段を上ったので、ちょっと奥まで歩いてみました。
 突き当たって右に曲がります。秘宝館ゾーンは鬼怒川的なものかどうかはさておくとして(まあ世俗化した焼き討ち前のお坊さん方が当時の春画的なものを隠していた可能性はゼロではないだろうけど)、あまり重要文化財的な空気感がないですね。横川の奥までやってくる観光客がすくないことも影響してそうですが。
 そして、恵心僧都の恵心院。「往生要集」という響きは覚えていましたが、誰が書いたか、なんて記憶の外に吹っ飛んでました。で、恵心僧都のWikipedia。項目名は源信でした。そうそう、源信さんですよ、源信さん。こっちで覚えてた。懐かしいですね。源信という響きを目にするのは(響きを(耳でなく)目にするという表現はおかしいけど)それこそ大学受験以来だろうな。

こんな道を進みます 横川鐘楼 秘宝館曲輪。秘宝館と聞くとあっち系のものを
思い浮かべるのは悪い癖ですね……
慰霊塔
海軍通信学校のものが
並んでいますが、
なにか縁があるのかな?
これが秘宝館なのかな?
重文っぽく見えませんが
さらに奥へ 恵心堂
なぜか急に
観光地チックな看板
解説 往生要集より 源氏物語横川僧都遺跡 恵心堂 ここにも解説

 そして、一旦横川中堂の下に戻ります。今度は逆側の階段を上って、如法塔。女峰塔だとイチゴタワーになってしまいますな。
 こちらの塔は円仁さんが法華経を納めるために建てたようです。おそらくこれも信長の焼き討ち時か、別のタイミングかで少なくとも一度は焼けているのでしょうから、お経も既に存在しないかもしれません。まあ、大事なことはお経が現存するかしないかではないのですが。
 そして、若干順番が前後しますが、龍が池弁天。池越しに横川中堂を撮ろうと友人と一緒に頑張ってみましたが、特になにか綺麗な姿が撮れることはありませんでした。

階段を上る 如法塔です 解説 近づく 如法塔側から見る横川中堂
龍が池弁天と龍神様 池越しの横川中堂 別角度から横川中堂

 さて、友人はこれで帰りたがっていたのですが、最後に元三大師堂へ。なぜか昔から角大師の絵が好きでして(この姿で全国に出回っているのって凄くないですかね?)、元三大師堂に興味がわいたのであります。なお、興味がわいたとか角大師が好きとか偉そうなことを言っていますが、特になにか特別な知識があるわけではありません。ぶっちゃけ、元三大師さんについては名前とおみくじに関連した人だということ位しか知りません。
 なお、私は「おみくじ」なるものに全く興味を持てない人間でして、物心ついてからお金を出しておみくじを買ったことはほとんどない(記憶としては1回もないのだけれど、付き合いで買った可能性はゼロでないので一応曖昧な表現にする)のであります。
 元三大師堂からさらに進むと元三大師さんの御廟があるようなのですが、あまり友人を引っ張り回すのも申し訳ないのでこれにて終了。

元三大師道 元三大師について さらに進み見ます 徒然草より 四季行動
今は元三大師の画像が
ご本尊のようです
元三大師と角大師 おみくじ発祥之地
山門 注意書き 元三大師堂です 奉納されている絵
豆大師 角大師 元三大師と角大師 元三大師物語 重文です 帰り道

5 帰路

 というわけで、比叡山延暦寺の3つのエリアを一応クリアしました。何を持ってクリアとするのかはよくわからんですが。
 とにかく、思っていた以上に広いことが分かりました。ここに何人くらい僧兵がいたのかは分かりませんが、入れようと思ったらそれこそ万単位で収容できるのは分かりますし、こんな山だったらまわりを取り囲んで兵糧攻め、なんて無理ですな。
 帰りは比叡山ハイウェイを下りつつ、ドライブインに立ち寄ってみました。

最澄さんかと思ったら違うのかな? 峰道レストラン 明智光秀のベイクドショコラ
焼き討ちに遭ったことを皮肉った商品なんでしょうか??
ごま大福
こっちは分かる
ここからの眺め

 さらに、中腹からの眺めです。
 びわ湖が眼下に見えますね。びわ湖が眼下に見えるということは、びわこ競艇場と大津びわこ競輪場跡地が眼下に見えるということです。さあ、どこだ。
 競艇場はいいとして、問題は競輪場です。競輪場は現在「ブランチ大津京」というよく分からない名前の施設になっているようです。中にマックスバリュは入っているようですが、イオンとは別物なのでイオンの看板に惑わされてはいけない。

こんな景色です
当然競艇場・競輪場の案内はありませんが
在りし日の競輪場の姿は残っております
ちょっとアップに 奥の区画は大津港で、競艇場は手前の区画のはず いったことがないので
ブランチの外観は
分からないのですが、
多分これじゃないかと思う

 そんなこんなで、この日の夜は何を食べたっけか……。うん、思い出せないぞ。
 いずれにしましても、比叡山ハイウェイが思ったよりも高くてびっくりしましたが、ここまで運転していただいた友人には本当に感謝感謝であります。比叡山というものの場所も何にも分かってなかったので、ご紹介いただいて本当にありがとうございました。

前日の京都戦


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