出世する浜松

 長老と合流し、浜松へ。
 浜松駅には公営競技の出走表入れがあったのですが……令和の時代に貴重な、「競艇」の文字が生きている出走表入れでした。浜名湖が「ボート」で蒲郡が「競艇」ってことは、表記がボートレースに統一されるよりも遙か昔、表記が「競艇」に統一されるよりも前にできあがったものなんじゃなかろうか。イマイチ競艇界の表現が「競艇」に統一された経緯を知らないんだけど。
 夜は宮崎料理のお店。なにゆえ浜松で宮崎なのか、というと、そこに宮崎があったから以上のものはありません。地鶏はやっぱり美味しいですね。久々に綾競馬にも行きたくなりました。

平成の出走表入れ 夕食はここ(翌日撮った) 宮崎と言えば、地鶏 宿泊地

 さて、浜松の中心部をまともに観光するのは、2010年以来。2010年は名波の引退試合の前に半日ほど歩いたのでした。
 当時の記憶は部分的にしか残っておらず、しかも観光前に旅行記を再読しなかったので、記憶の喚起もできておりません。どれくらい記憶が飛んでるかというと、前回駅前に出世大名家康くんがいたかどうかの記憶がありませんでした(前回もいました)。


引間城

 まずは、前回同様引間城から。前回は曳馬ではなく引間であることに驚いた記憶がありますが、今回はもう驚きません。

引間城のあった高台 玄黙口 玄黙口あたりから見る曳馬城

 そんなわけで、東照宮に参拝。同じタイミングでご家族連れが入っていったので、映り込まないようちょっと苦労。
 前回との比較でいうと、前回は手書きの由緒書きしかなく、綺麗なパネルの解説板はなかったようです(平成27年1月以降に出来ているようですから、井伊直虎の大河の2年前です)。また、記念撮影用の像も当然前回はありませんでした。前回はインスタ映えだのなんだのという言葉はなかったものね。

鳥居 由緒書 引間城本丸跡 拝殿 二公像と写真を撮ろう!

 そんなわけで、引間城をあとにして、浜松城へと向かいます。

引間城の台地 前回は御城印もありませんでした 家康公御住居跡 引間城の台地

浜松城公園

 前回はどういうルートで浜松城に入ったのか、全く記憶にありませんが、とりあえず今回は北東側から入っていくことになります。

綺麗な水辺 茶室があるようです 公園案内図

 2023年は大河ドラマ「どうする家康」の年です。てなわけで、公園脇には大河ドラマ館ができております。また、大河ドラマと関係があるのかどうかは分かりませんが、公園内には屋台が出ていて大変盛り上がっておりました。もしかしたら高松宮記念で儲かった人が浜松に立ち寄ることを期待していたのかもしれません。まあ、私は外してるので関係ないけど。

本日の出店者 浜松家康弁当 盛り上がる公園内。月曜なのにこの出店数は凄い気がする

 さて、公園内には浜松城に関するパネルが多数。前回はなかったものであり、おそらく折からのお城ブームや直虎の大河などで浜松市が気合いを入れたのだと思われます。
 まずは城下町の発展の様子を比較できるパネル。

1 徳川家康在城期の浜松城中枢部と城下町
2 堀尾吉晴在城期の浜松城中枢部と城下町
3 廃城時の浜松城中枢部と遠州浜松城絵図・城下町

浜松城本丸?二の丸?

 さて、ここから私は迷子になります。正確には、公園内においては迷子ではないのですが、浜松城の中で迷子になっています。
 そう、浜松城の縄張りは完全に破壊されているため、本丸・二の丸の場所と今の公園とが分かりづらいのです。
 案内板として、二の丸やら本丸やらが出てきますが、どうにも今の公園の構造との関係がつかみづらい。二の丸の案内板の場所も二の丸だからある、というわけではなさそう。

浜松城本丸と石垣・堀跡 公園内の所在地 富士見櫓台を見上げる
浜松城二の丸 道路をぐるっと。二の丸の案内板はあるけれど、場所は本丸ですね 大河ドラマ館

鉄門

 さて、鉄門跡の案内板が見つかりました。
 古地図を見ると、鉄門は本丸に入るど真ん中ちょっと右手に位置していたようなので、この鉄門跡のあたりは本丸ですね。二の丸はもっと遠くにあったようです。
 鉄門跡は地面に表示されております。復元するわけにもいかない以上、こうやって少しでもなにかを残すこと、来訪者にも分かりやすくすることは大事ですね。これがあったおかげで自分の居場所や古地図の縮尺のイメージなどもわきました。ありがたやありがたや。

解説板 こんな印が埋められています 分かりづらいですが、地面に印が埋め込まれています 駐車場内にはありません
ぐるっと本丸方向を見回す 天守曲輪を見上げる 鉄門の左下あたり 大河2作品 鉄門跡〜二の丸方向

浜松城の変遷

 続いて、浜松城の変遷の解説板。先ほど見たものと同じかと思いきや、別物です。こちら側(本丸側)は多くの人が訪れるからいいとして、先ほど見たものは必ずしも全観光客が見るとは限らないような気がします。先ほどのものを見ていると、なんとなくお得感がありますね。
 ちなみに、浜松市のホームページに「浜松城公園(本丸南広場)解説看板について」というページができておりました(念のため魚拓)。頑張って写真撮ったのにこれで足りるではないか。まあいいや。
 変遷を見ていると、城の縄張りもそうですが、街道や大手道の変化が大変興味深いです。

引間城の時代 浜松城築城期 堀尾吉晴期 17世紀前半 地図をアップで。道路の変化と発展が興味深い
家康在城期の浜松城 家康の浜松城 発見された堀跡 確認された堀の位置

新たに発見された石垣

 繰り返し出てきているとおり、前回私が訪れた2010年以降、浜松は井伊直虎と徳川家康、2つの大河の舞台となっております。そのためもあってか、あるいは政令指定都市浜松のパワーがあってか、浜松城は発掘調査が進んでおります。そんなわけで、新たに発見された石垣。
 2014年の発掘調査で発見された石垣です。その後、2018年に整備をおこなったとのこと。2010年に訪れたままでは見られなかったものがみられるわけで、人間長生きすればいいことがありますね。そんなにこの石垣に興味があったか、と言われると特にないのだけど。


登り塀

 天守曲輪へと向かっていきます。
 途中、「登り塀」という解説が。鉄門跡と同様に、復元をするのではなく、跡が下に示されているかたちとなっております。
 しかし、正直解説板を読んでも当時の姿がイメージしづらい。私の想像力と当時の知識が不足しているためであります。

あらためて天守曲輪を見る 解説板 登り塀跡

西端城曲輪〜埋門

 そして、西側へ。一応、往時は武者走りがあったようで、またどうも西端城曲輪という曲輪があったようです。曲輪のかたちもよく分からず、公園化の際にどこまで破壊されたのかは分かりません。どういう建物があっただろうか。

天守西側の曲輪? 天守曲輪の石垣

 そして、ここから天守曲輪にはいっていくところに埋門があったとされております。今は門や櫓は無く、石垣に切れ込みがあるだけであります。

搦手筋と埋門 搦手筋 埋門へ 埋門の南側の石垣
埋み門の北側の石垣と、天守を見上げる 埋門南側

 そんなわけで、天守曲輪へと入っていきます。


雨の中の初G1 / 浜松城天守曲輪へ


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