内海の野間(野間編)


 昔より主をうつみの野間なれば報いを待てよ羽柴筑前

 この織田信孝の辞世の句と言われる句、実際には後世の創作だとのことではあるのですが、私の大好きな句です。なんというか、色々な恨みがストレートに表現されており、最後の最後が羽柴筑前の7文字で終わっていて、もうちょっとなんか考えろよと言いたくなる感じ。信孝の人となりについての私のイメージは色々ありますが、なんか人間的な小ささというべきか人間としての正直な部分と言うべきか、直情的な部分と言うべきか、ボンボンな部分と言うべきか、とにもかくにも信孝らしさが出ている素晴らしい句だと思います。
 そんなわけで、信孝切腹の地であり、句に詠われる「昔」の地でもあるこの内海。一度は訪れてみたい場所でした。

19.野間駅

 そんなこんなで、野間駅へ。向かいます。
 青山からは一旦富貴で乗り換えになります。富貴駅もなんか面白い構造でした。普段乗らない電車がいろいろ趣向を凝らして支線を取り扱うのを見るのは大好きです。
 ちなみに、平日なので学生さんが多いのはいいとしても、こんなに学生さんが多いとは予想外でした。このあたりに学校があるんですね。電車の発達に学校は欠かせません。

青山駅 河和行きに乗ります 路線図 富貴駅で乗換え
構内踏切待ち 内海行きは3番線 踏切を渡ります 電車が来ました

 知多新線という路線自体、もちろんここに来るまで知らなかったんですが、野間駅はホームの反対側にホームはあれど使われている形跡の無い、面白い駅でした。これは競艇場前で見たことあるぞ。
 なお、知多新線には野間の先に作られる予定だったけれど作られなかった駅があるというのはなにがしかのYouTubeで見た記憶があったので、てっきりこの野間駅のホームも使う予定だったものが使われなかったのだと思ってたのですが、Wikipediaによるとそうではなく、2023年3月に閉鎖されたとのこと。つまり、閉鎖されたてほやほや、閉鎖されてから1年ちょっとしか経ってなかったんですね。まあ確かに、まだまだ綺麗な状態だったものな。

野間駅に到着 野間駅の様子 線路も無くなっています ホームの先から
廃止されたてほやほやの2番線
こっちは立入禁止 時刻表 運賃表 改札口 美浜幕府の野望
なんなのかよく分からなかった
外観

 ちなみに、帰りには無駄に駅のホームから動画撮ってました。何がしたいんでしょうかね、私は。

20.野間大坊・大御堂寺へ

 では、野間大坊へと歩いて行きます。微妙に雨が降ってましたが、とりあえずは傘無しで。

史跡マップと寺院 駅方向を振り返る 進みます

 まず最初に登場するのは長田屋敷跡。
 看板があるのみで、特に跡地としてのなにかがあるわけでも、解説板があるわけでもなさそうです。長田氏への扱いとしては素晴らしいものですね。
 その向かいにははりつけの松への案内も出てましたが、とりあえず居間は野又異母を目指します。

長田屋敷跡。長田氏への扱いとしては非常に分かりやすい扱いでは無いかと思います はりつけの松はこっち

 さらに進むと、いよいよ寺域が見えてきました。その前に、血の池。義朝公の首を洗った場所だとのことです。国の変事には池の水が赤くなるとのことだったので念のため確認してみましたが、とりあえず2024年4月時点では水の色は赤くありませんでした。

見えてきました 血の池 変事には水が赤くなるらしいですが、
一応このときは透明でした

 そして、山門が登場。とりあえず、お参りしてお寺の中を歩き回る許可を(一方的に)得て、散策スタート。
 ところで。野間大坊と大御堂寺、てっきり大御堂寺の中に野間大坊があるのだと思っていたのですが(あらためて大御堂寺のサイトを見ると、通称が野間大坊であるとされているのでやはりこの扱いで正解なのだろうな)、知多四国だと別々の霊場番号があてがわれてるんですね。知多四国の問題なんだろうか。

見えてきました 大門。1190年創建とか 境内
沿革 本堂
建物は3回焼けたようですが
ご本尊は快慶のものが現存し県重文となっているようです
宮内省御下賜 三景艦の主砲砲弾 忠魂碑
流潅頂
100円シールが貼ってありますが、中に入っているのは120円
ペット供養塔 弁財天 五重塔跡

 そして、もうちょっとお寺の案内図とか野間まわりの観光案内とかが充実しているのかと思ったら、お寺が作ったものとしては特にありませんでした。ちょっとあったのが、地元の小学生がつくった野間ナビという地図。これは力作です。

 そんなわけで、思ったよりも義朝プッシュも無ければ信孝プッシュもなかったのですが(平清盛の大河のときはどうだったのだろうか)、この日のメイン、源義朝のお墓と、織田信孝のお墓であります。
 源義朝公のお墓には、源義朝が最後に手にできなかった木刀をお供えするのが通例となっているようです。1本500円と良心的なお値段。護摩木お焚き上げのお値段は場所によって幅がありますが、500円ならかなりいい方ではないでしょうか。

 そして、ある意味お目当てだった織田信孝のお墓。その囲いに、15代太田宗一郎さんら、太田一族の名前が刻まれておりました。信孝の血縁で15代なのかと思ったらそうではなく、信孝の家臣で、最期まで付き添って信孝を介錯したとされる太田和泉守牧陰を初代とする太田一族のようです。愛知の歴史ある会社として、日商Assist Bizや、愛知千年企業みかわこまちなどのサイトで紹介されておりました。その横に名前のある泉合資会社は、太田商事の沿革ページによると現在の太田商事の前身のようで、現在は不動産管理業をしているようですね。

 また、池禅尼の塚もここにありました。気になるのは、埋蔵物。名古屋市博物館に保管されているようですが、なにがあったのだろう。

野間大坊の案内 源義朝公ゆかりの地 野間ナビ 武将の案内かと思ったら
武将印の案内でした
源義朝公御廟所 解説 墓所への門 義朝公のお墓が中心です
木太刀は1本500円 せっかくなので自分も 字が汚い 見た目に新しい木刀は少ないですが、
下の方の黒ずんだ木刀はいつ頃のものなのだろうか
織田信孝のお墓
こちらはひっそりとしておりました
太田一族 泉合資会社
池禅尼のお墓 蒲田政家とその妻のお墓 墓所の様子

 という具合に、大御堂寺の参拝を終えました。続いて、野間大坊。
 こちらは88カ所のお砂踏があったりして、真言宗っぽさが強いです。

お地蔵様と小仏 お砂踏 悠紀殿
野間大坊客殿
まさか伏見桃山城から持ってきているとは
ここに義朝公最期の絵解きがあるようです
厄除けの人形 開運地蔵尊

 という具合に、参拝を終えました。思ったよりも義朝義朝していないお寺で、信孝の存在感はさらに薄く、普通の大寺院という感じでした。これはいい意味で予想外。
 ですが、武将印押しもしていたり、信仰と商売の狭間で色々とがんばっておられました。

21.安養院

 続いて、安養院へ向かいます。徒歩数分であります。ここは知多四国53番。

道中のお花 安養院 安養院沿革など

 ここは織田信孝自害の地として知られております。
 手書きの案内板には信孝のことしか書かれていないのに対し、印刷版の沿革では鎌田政清親子のことが書かれていたので、印刷版は大河の平清盛に合わせて再作成されたというようなことではないかと推測。

 ちなみに、この日は花祭り開催中とのことで、本堂脇に甘茶のお接待がおこなわれておりました。お寺の方に勧められたので、ありがたくいただきました。ごちそうさまでした。
 それにしても、お接待文化は四国を離れるとかなり懐かしく感じられます。

参道 大蘇鉄 本堂
甘夏と紅はっさく お接待のお茶 せき地蔵 みちびき地蔵尊

 そんなわけで、非常に雰囲気のいいお寺でありました。

22.密蔵院〜はりつけの松

 野間のラストは密蔵院。
 源頼朝が、源義朝の菩提のために建立したとのことです。こちらには本堂の脇に弘法堂、閻魔堂があります。

密蔵院 沿革 山門 修行大師像 石庭
本堂 大師堂 閻魔堂

 ここに何カ所かあるのが、かじとり観音の案内。
 第二次大戦中、小笠原近海で沈没した第十雲海丸の船員が生存した際にお祈りしていた観音様についての解説であります。
 一段上がったところにある観音堂脇にある古い船のところにも解説がありました。この小舟、実際に7名が載ってきた船なのでしょうかね?

観音堂 小舟とかじとり観音昭和霊験記 役業者

 そこから、長田親子はりつけの松へと向かいます。
 思ったよりも距離があってちょっとびびりましたが、しばらく歩くと無事はりつけの松に到着。跡地とあるので、松自体は残ってないのだろうと思います……と思って、どれが問題の松なのかと思ってみましたが、おそらく裏手にある幹の太いやつがそれなんじゃないかと思います。

 この碑文に刻まれている辞世がまた凄い。

  ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまわり

 長田親子が源平合戦後、美濃と尾張を所望して身の終わりを賜ったという話をもとにした創作の句だと思います。信孝の辞世に勝るとも劣らないレベルの直接的な辞世です。

はりつけの松へ こんな道を歩きます はりつけの松
石碑 ここに石標があったので、
この裏の一本木がなにか意味があるのかと思った
裏側から おそらくこれが問題の松 このあたりからの長め
桜が綺麗です
 そんなわけで、野間観光を終えて、野間駅に戻ります。思ったより観光地化されていなかった印象でしたが、他方で知多四国霊場の信仰の篤さも分かります。

続いて、内海へ。

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