撤退岩屋城

 昼食を済ませて,後半戦です。ここから自転車に乗って旅した記憶があります。

観世音寺&西戒壇院

 まずは観世音寺。
 太宰府の脇にあるお寺で,古くから篤く信仰をあつめてきた寺院ですな。残っているものは少ないですが,なかなかに興味深い寺院です。脇には「西戒壇」。天下三戒壇の1つとのことです。「戒壇」というと,鑑真ですね。唐招提寺に行ったのはいつだったか忘れましたが,こっちが先だな。唐招提寺に行ったときにも思ったんですが,「戒壇」という名前は有名ですが,いまいち何をやってるのか分からんのです。そもそも大事なのが人で無く場所だ,ってのがよく分からんのよね。鑑真さんがいる場所ならどこでもいい,ってもんじゃないのが素人には分からない。
 宝蔵には多くの仏像が並んでおりました。特にこの頃はあまり仏像を見慣れてなかったので,なかなかに興味深かったです。

観世音寺 参道 南大門跡 境内 案内 観世音寺絵図 宝蔵にある宝物一覧
金堂 碾磑(天平石臼)
結局臼ってことで
いいんでしょうか
木げん樹 観世音寺から西戒壇へ
こっちが正面から
西戒壇院へ入る山門
2つに折れたってことでしょうか? 解説 境内 本堂 五重塔
右が鑑真和上供養塔
左が宝篋院塔
梵鐘 地蔵菩薩 日中不戦の植樹
  
 
菩提樹
鑑真さんが招来したらしい
ここから観世音寺に戻って
五重塔心礎
国宝梵鐘 大通りからあらためて戒壇院

太宰府跡

 ってことで,観世音寺と戒壇院まわりを攻略し終えました。一番時間を使った宝蔵の写真がないからなんか今から5年前を振り返るとなんかアンバランスですな。

 続いて,いよいよいわゆる太宰府跡地へと進んでいきます。太宰府の前に,学校院地区。まあ,今の復原レベルだと野っ原が広がるだけですが,将来的に学業院なる寺院の全容が判明して適度に復原されるといいなあ。どうなることやら。
 さらに月山東地区。ここは礎石跡までは分かっているようで,丸太で建物の場所が示されております。どこかに絵図が転がってないものでしょうかねえ。でもまあ,さすが太宰府だけあってこの手の場所をちゃんと遺跡として保存保全しているからたいしたものです。
 とりあえず,このあたりの土地を買って開発しようなんて考えは間違っても起こしちゃいけないな。


学校院地区案内
 
けっこうな広さですね
 
月山東地区
 

 でもって,いよいよ本丸の太宰府です。まあ,いまとなってはここも礎石が並ぶだけではありますが,さすが太宰府だけあって広い。完全に感覚だけの問題ですが,このあと行くことになる多賀城に比べても広く感じました。この手のことに関する自分の感覚ほど当てにならないものは無いと思ってますので,実際はどうだか知りません。
 そして,ここ太宰府は市民の皆様の憩いの場となっており,皆様思い思いの方法で楽しいゴールデンウィークを過ごしておられました。

 良くも悪くも太宰府跡は礎石しかないので,そんなに時間は使わずに済みます。そして,跡地には何もない代わりに,近くに太宰府展示館があり,簡単な解説があります。撮影禁止なこともあり,正直どんな展示があったか,5年経過した今となっては記憶から飛んでおりますが,とりあえず周辺の地形も含めた展示があったのは覚えております。これをふまえて水城を訪れることになるわけですな。

史跡太宰府跡 いざ乗り込みます! この堀は昔からあったのか?? 解説 保存の道 南門解説
南門跡 築地跡は植え込みになってます 南門からの眺め 正殿跡解説
都督府古跡 礎石が並ぶ 正殿跡から南門方向 正殿跡から北方向
野っ原が広がります
北から正殿跡 太宰府展示館へ

水城跡

 ってことで,目指すは水城跡。白村江の戦いの敗戦後に防御のために築かれたとのこと。現在残るのは堀と土塁。Wikipedia情報では,残るというよりももともと堀と土塁だけだったっぽいな。「水城」とつくからにはやっぱり水堀があったようで,太宰府観光協会によると,「基底部で幅80m、高さ13mを越える人工の土塁(堤防)を築き、その博多湾側に幅60m、深さ4mの堀をつくり、水を貯えたという」とのことです。長さ自体は万里の長城とまではいかないにしても,土塁については幅80m高さ13mってかなりのものですね。本当だろうか。大野城市の解説(行方不明になるともったいないので魚拓)が絵入りでわかりやすい。
 今となっては小規模な(それでもかなりのもんだけど)土塁だけになっちゃってますが,ここに幅80m高さ13mの土塁があったとなるととんでもない迫力だっただろうな……。

途中にあった衣掛天神 水城東門礎石 近くのお地蔵さん
大正時代建立の石標
さすが古くからある観光地
水城解説。新しいものから古いものまで 土塁を見上げる 上から反対側の
土塁を見る

国分寺跡

 さてさて。続いては国分寺・国分尼寺を目指して進みます。
 国分寺は東京にそういう名前の市があって,それこそ行こうと思えば国分寺の跡地にはいつでも行けたはずなんですが,結局今日に至るまで行かずじまい。それでいてここまできてわざわざ足を伸ばそうってんだから,何を考えてるのか分かりません。
 四国あたりだとまだ「国分寺」と名のつく現役のお寺さんが多数存在しますが,ここ太宰府では,国分寺は更地になっていて,礎石だけが並んでおりました。

国分尼寺跡 礎石。国分尼寺跡のものだと伝わっているとのこと 天満神社
天神様と関係があるのかどうかは不明
山上憶良歌碑 吽阿 灯籠から 国分寺石標
国分密寺へ 筑前国分寺跡解説 国分寺跡の礎石 文化ふれあい館庭にある七重塔
本当にこんなものがあったのでしょうか

撤退岩屋城

 てことで,いよいよ岩屋城を目指すことになります。
 文化ふれあい館で,岩屋城への登山ルートを書いた紙をもらいました。もらうときに,「おまえ本当にそんな格好で登るのか」というような目で見られたのをよく覚えております。おそらくフェリーで九州入りしていることからして,当時自分はスーツを着てたと思われ,まあ,そう思われても仕方がなかろうな。

 で,いざ登城。
 最初の入口は簡単に見つかりました。これは幸先よい。そして,進みます。途中,親子連れとすれ違いました。一応人はいるんだな。

 ……が。
 完全に行き詰まりました。どう考えても簡単に進んでいける道じゃない。一般的な登山口を使ってないのは承知してますが,それにしたっておかしい。これはやばい。
 そして,遠くに見える岩屋城の碑(たぶん)。高橋紹運待ってくれ〜遠くに行かないでくれ〜と心の中で叫んでも,遠くに行ってるのは高橋紹運では無く自分です。明らかに進んでる尾根が違う。そして,これ以上進むのは(スーツだし)危険な香りしかしない。

 ……てことで,撤退決定。これ以上進んでもいいことがなさそうだ。

 結論として,まあ普通に皆さんが使うルートから登るのが正しい。変なことをしてはいけません。
 また,一度撤退すると,次からも撤退する勇気がわきやすくていいですね。その意味でもいい経験できたと思っております。

いただいた地図 ここから登っていきます こんな道 矢印出てます
ここまでは正しい
お地蔵さん 遠くに岩屋城の碑
っぽいものが見えます

日吉神社など

 てことで,無事下界に復帰しました。
 あとは,太宰府駅に戻るだけです。道中,いくつか寄り道しました。

箱式石棺 日吉神社。地元ではヒヨシ神社とカタカナのようです。なぜだろう。
また,山王社との呼び名もあるようで,2つめの鳥居は「山王社」でした
拝殿
お潮井 こっちの解説は控えめ 旭地蔵尊
地元の方が集まってました
太宰府駅
ここで自転車を借りたらしい
(他人事)
ここで食べたいきなり団子が人生初のいきなり団子
だったような気がする。次は唐津城だな

 この日の夜は,中州の屋台で焼きラーメンとおでん。下戸なので酔っ払って大暴れ,とかできないのがつらいところですな。

太宰府その1へ福岡探訪

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