エチウノツツミ

4 水神社&水神橋

 佐々堤に向かう前に、大川寺の駅前に神社があったので寄ってみました。水神社という神社のようです。さあ、いよいよ水害に悩まされた富山の皆様の生活が見えてきましたね。
 ここまできてようやく思い至りましたが、そもそも「大川寺」の名前に入っている「大川」というのは、常願寺川のことなのかな(どこかから移築されてきてたらごめんなさい)。
 とにもかくにも、「水」というものが非常に大事である、ということをあらためて認識できたのでした。

鳥居 社号標 拝殿 神馬 五穀豊穣
水神橋建設の言葉 水神橋 水神橋側の鳥居 水神橋から見る常西用水


5 常西プロムナード〜常願寺川

 水神橋を渡ると、ちょっとした公園になっておりました。常西プロムナード、というちょっとした公園兼ウォーキング・サイクリングスポットになっているようです。常西、というのは常願寺川の西、ということでいいんでしょうかね。看板が古びているのであれ、と思ったら、「大山町」という記載がありました。どうやら平成の大合併で富山市と合併した町のようです。古びた看板ではありますが、佐々堤や殿様林など、今日の目的地もかかれております。
 
常西プロムナード 水は大地の生命である 常西用水。ここで折れ曲がります 常願寺川流域マップ

 ところで、今回話題になっているのは常願寺川です。
 自分は人生でこれまで「富山県=神通川=イタイイタイ病」という単純化された頭で生活してきました。そう、富山と言ったら神通川のイメージだったのです。一応、「富山 川」で検索したら、神通川が一番上に出てくるのでその認識が大きく間違っていないのは事実でしょうが、神通川しか知らなかった自分の知識の薄さは反省しなければなりません。
 そして、この常願寺川、何がやばいって、勾配がやばいです。国交省の常願寺川のページを見れば一目瞭然。
 「日本三大急流」として知られているのは、富士川球磨川最上川です。これは小学校で習います。こいつらよりも急流なのが、この常願寺川なのです。一体なぜこいつが「日本三大急流」から漏れたのか、栗林公園が三名園より優れている、とされているように、もしかしたら三急流も常願寺川が一番で2番手以下を「三大急流」としてしまったのかもしれません。あるいは、球磨川を支配する肥後の面々が佐々成政が活躍した常願寺川を「三大急流」仲間に入れることを拒んだのかもしれません。なお、ネットで見ると「常願寺川はマイナーなので三大急流から省かれた」とされていますが、おそらくこれは因果が逆で、もし常願寺川が三大急流に入っていれば常願寺川はメジャーになっていたのではないかと思うところです。

 ところで、常願寺川が急流であることを象徴する話として、誰か有名な人が常願寺川を見て「これは川でなく滝である」と言ったとか言わなかったとかいう逸話が残っています。どこでこれを知ったかは忘れましたが(現地で知った可能性もある)、とにかく私はこれを知っていました。これを書くためにあらためて常願寺川のWikipediaを見るとなんとびっくり、もともとは「オランダ人の技師のヨハネス・デ・レーケが、「これは川ではない。滝である」と言ったと伝えられてい」たものが、「2020年に入ると、実際はローウェンホルスト・ムルデルが早月川を指して発言したということが、過去の富山県会議事録によって裏付けられることになった。」ということのようなのです。
 なんとまあ、常願寺川を訪れた2019年からこれを書いている2021年1月の間に、歴史が塗り替えられてしまいました。いやはや、びっくりびっくり。早月川というのも非常に気になりますが、気にしているときりがないので、ここで一旦打ち止めにします。

「富山 川」の検索結果 国交省の最上川のページから図を拝借

 それともう1つ。「常願寺川」と言う名前を聞くと、「常願寺」という非常に大きなお寺があったんだろうな、行ってみたいな、と思うところですが、さきほど参照した常願寺川のWikipediaを見ると、「古代から洪水が多かったため、川の名前は「出水(氾濫)なきを常に願う」という沿岸住民の気持ちをこめた瑞祥名称である」とされています(ほかにもいくつか説が載ってますが)。なんと、常願寺というお寺が由来というわけでは無さそうです(そういう説もありはするようですが)。まあ、これは「遠路常願寺を参拝しなくて済んだ」と前向きな発見として捉えておきたいと思います。

 そんな急流常願寺川ですが、この日は雨が降ったとはいえ雪解け水が大量に流れ込むような時期でもないですし、川の流れは落ち着いておりました。
 そうそう、この時間になると雨もあがっています。運気がこっちに向いてきたぞ。

常願寺川 急流らしさがあるサイレン案内 常西用水〜堤防〜常願寺川
常西合口用水プロムナード 常西用水側の遊歩道に降りてきました 花の名所らしい ふれあいプロムナード 花見用に作られたと思われる椅子や机は立入禁止
(2019年なのでコロナとは無関係)
突然現れる無機質な構造物
ささやき橋という橋らしい
「まちのかおづくり事業」で降りてきた予算を
つぎ込んだようですが・・・・・・
橋の様子 こっちに進むことができます 蜘蛛が休んでます 下を見る
下流方向 上流方向 フンの始末は飼い主の義務
「注意」の中身が条例の条文に忠実すぎて面白い
この看板にも
急流らしさが出ています
やすらぎ橋
名前は似たようなものなのに
ささやき橋との差が大きい
メモリアルロード。おそらく小学校の卒業制作で作られたと思われる、皆さんの手形が飾られております
大山町が富山市と合併したのが平成17年4月1日なので、合併後のものもありますね

6 佐々堤

 さて、メモリアルロードを抜けるといよいよ佐々堤に到着です。「佐々堤」と書いて、「さっさつづみ(さっさづつみ)」ではなく「さっさてい」と読むみたいです。なお、信玄堤は「しんげんづつみ」と読むようです。日本語って難しいですね。あ、信玄堤のWikipedia国交省の冊子のPDFでは「しんげんづつみ」ですが、こちらの国交省大田川河川事務所のページ(直リンで飛んだのでどういうページか不明)では、「しんげんつづみ」とあります。これはもう真面目に読み方を考えたら負けだな。中条堤は「ちゅうじょうてい」なわけだし。

 ところでみなさん、佐々堤ってどんなものだと思っていましたでしょうか。私は、「堤」っていうんだから、当然佐々成政の指示で堤防ができたんだとばかり思っていました。そして、「今も佐々堤が残っている」っていうんだから、佐々成政が作った堤防が、それこそ城の土塁のごとく一部残っているのだと思っていました。
 ところがどっこい。
 見えてきた佐々堤はそもそも常願寺川ではなく、常西用水にあります。そして、「佐々堤」として示されたものは堤防ではありませんでした。
 常西用水の川底(用水底)に、整然と並べられた石があります。その脇に、「佐々堤」の解説板があります。
 ??????

 あらためてしっかりと解説を読むと謎は解けるようにできているのですが、現場でそれを理解するほど私の頭はよろしくありませんでした。
 現在の常願寺川の川底は当時よりも5m以上高くなっています。凡人が考えると、川底は削れて低くなっていくのではないかと思うのですが、おそらくここに至るにはなにか色々とあったのでしょう。どうも、1858年に飛越地震という大地震がおこり、このときに河道閉塞などもおきたようなので、このあたりの事情が関係するのかもしれません(注:答えはあとで分かります)。いずれにしても、川底は佐々期よりも高いのです。
 そのため、佐々堤は基本的に地面の下に埋もれていて、常西用水の川底に、埋もれた佐々堤の一部が露出している、ということのようなのです。

 この佐々堤は、いわゆる霞堤という種類の堤防だったようです(国交省も参照)。戦国大名と堤防、といえばみんな知ってる信玄堤もこの霞堤だったようですね。検索してたら、手取川の霞堤が土木遺産に認定されてました。手取川は信長vs謙信のおかげで有名な川ですな。
 この霞堤、2022年8月5日に滋賀長浜で機能している姿が話題になりました。実際に霞堤の姿を見ると、どういうものなのかがよく分かります。まあ、機能しない方がいいんだろうけれど。

 また、佐々堤が再評価されるようになった、もっといえば黒百合伝説等で評価が散々だった佐々成政が再評価されるようになったのはそれなりに最近のことのようでして、遠藤和子さんの佐々成政の本を読むとそのあたりのことが解説されておりました。

常西用水の様子 佐々堤に接近 解説板 編集して見やすくしてみた 一部をアップで
しっかり読むと、佐々堤が埋もれてることが書かれてます
常西用水の底に眠る佐々堤。石が綺麗に並んでるので、おそらくこれがそれなんだと思います 佐々堤と殿様林
大川寺遊園が地図に残ります
前田「利與」公の名前に修正が入ってますね
上から見下ろします

 そんなわけで、最大の目的であった佐々堤の攻略が終わりました。
 あとは、周囲に残る諸々を見て回ります。
 なお、佐々堤の裏、というか常願寺川側には「殿様林緑地」があります。いわゆる河川敷グラウンドですね。トイレが豪華なのは、どういう予算の付き方をしたのだろうか。まあ、冬の雪や常願寺川の増水にも耐えられるようにしたのだろうな。このトイレは平成11年度グッドトイレコンテストのグッドトイレ部門でさわやか賞を受賞したようです。なんだその誰も聞いたことがないコンテストは。しかも、グッドトイレコンテストのグッドトイレ部門って、ほかにも部門があるのか。白馬賞と白馬レコード大賞みたいな関係でしょうか。
 検索していると、日本トイレ協会というものがあることが分かりました。まあ、それはあっても全くおかしくない協会なんですが、てっきりTOTOとかINAXとかが主導してるのかと思ったらそうでなく、建築とか設計とか中身よりもガワの協会ですね。グッドトイレ推進運動の公式テーマソングなんかも作られていて、やる気が見える協会です。

殿様林緑地 といれ グッドトイレコンテスト
グッドトイレ部門
さわやか賞受賞
グラウンドを使う学生の
父母の会が管理してるみたい
河川敷グラウンド
芝生があって立派です

7 太田閘門&佐々成政橋

 貴重なトイレタイムを経て、常西用水側に戻ります。登場するのは、太田閘門。
 閘門については、以前扇橋閘門に行ったときにこういう言葉があるということを知りました。
 とはいえ、解説板を読んでも扇橋閘門でみたような、水位をいじって調節するような設備があったとはちょっと思えない感じです。水位をいじる(水を吐き出す)ための門、ということなんでしょうね。一口に閘門と言っても色々あるようです。勉強になるなあ。

 ちなみに、太田閘門の写真撮影用に使わせていただいたエメラルドグリーン色の欄干が特徴的なこの橋は、佐々成政橋という名前のようです。特に名前の由来の解説は無く、「言わなくても分かるだろ」という感じですね。

太田閘門の案内が見える 上から橋を見下ろす 太田閘門
太田閘門の近くにかかる佐々成政橋

8 殿様林

 そして、殿様林公園。先ほど見た河川敷の運動場は殿様林緑地でしたが、こっちは公園です。公園も緑で一杯な気もしますが、もしかしたら「公園」「緑地」それぞれに法律的なルール(管理者が違うとか)があるのかもしれません。「公園」って「公」って文字が入っている以上、なんかルールがしっかり定められてそう。
 殿様林は、先程来ちょこちょこ登場しておりますが、富山藩第6代の前田利與期につくられた水防林です。堤防だけでなく、水防林も作られていたわけですな。

だいぶおんぼろですが、
県営かんがい排水事業の案内
太田閘門や佐々堤の絵がみえますね
個人の畑を撮ってるようで申し訳ないのですが、
このあたりの常西用水の様子です
奥の木々が一応殿様林の木の名残かと思います
殿様林の名残?
殿様林公園 殿様橋 殿様橋から見る常西用水

9 済民堤

 続いて、済民堤。ここにさっきの疑問の答えがありました。国交省河川局が平成17年に作成した資料のPDFがネットに転がってました。これによると、「『済民堤』は、戦国時代に越中守護職佐々成政が築いたといわれる堤防が、その後、安政 5 年の大洪水で埋まってしまい、改めて築かれたものである。」とあります。
 というわけで、先ほど佐々堤で思ったことの答えがあっさりと発見されました。それにしても、安政5年の大洪水ってどれだけの土砂を動かしたんだろうか。江戸では安政の大獄をやってた裏で、富山では大災害ですな。これじゃあ維新だの何だの言ってる場合じゃない。

 ちなみに、済民堤の案内によると、どこかに石碑があるようなのですが、発見できませんでした。

済民堤石碑は発見できず 常西用水の水量を調整するためのダムだと思われます

10 雷鳥大橋

 そして、雷鳥大橋を渡って常願寺川の対岸へと向かいます。北陸まわりはなにかと「雷鳥」の名前がついたものが多いですが(といって特急の名前とお菓子の名前しか浮かんでないけど)、橋はここにあります。常西用水まわりの賑やかな橋とは対照的に、いつ増水してもいいような簡素な橋です。

雷鳥大橋 こうしてみていると、とても暴れ川には見えません
増水するとここが一杯になるんでしょうね
立山町に入ります

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